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ブッダガヤにて<インド歴史考察>

        この半年間にブログを検索した方々へ  


 はじめに、この記事をブログに載せるのが遅れたことをお詫びします。

 昨年は7ヶ月間荷を担ぐ旅が続き腱鞘炎が進行したためでした。今春ほぼ完治しました。これまで頭の中だけで書いてきたものを記します。歴史の好きな人は読んでください。歴史観を互いに育みあいましょう。 2009年6月中旬


 ブッダガヤから見たインド史と現在の激変文明と民族の興亡をブッダガヤで考えた。外出もかなわない北インド夏の日中、旅のバイブル「世界史年表・地図」吉川弘文館発行を、暗いアパートの一室で眺め続けた。以下は、その一ヶ月近い熱中症じみた歴史瞑想に流れた汗の軌跡である。

 ここビハール州に仏跡のほとんどがある。その中心が、紀元前500年の頃にブッダの悟った地ブッダガヤである。当時もグローバリゼーションの最中であった。鉄の普及により軍備が強化された。規模が拡大した戦争の結果、ブッダの悟る100年前には、ユーラシアの回廊に史上初めての巨大な領地とトータルな管理機能を持つペルシャ帝国が成立した。文明はそれまでの地域中心地であった、セム族ハム族系のメソポタミア、エジプトから北へと移転した。その担い手もまずペルシャのアーリア系民族と、東方では漢民族が主となった。ペルシャを亡ぼしたギリシャ人アレキサンダー大王もインドを統一したアショカ大王もアーリア系の民族である。

 鉄は農機具と工具も発達させた。森林伐採、深耕、灌漑による耕地の拡大、農業生産量の増加、人口の増加、階級制度、商工業の発展。それは国家間の戦争ばかりではなく、国際的な貿易と文化交流を推進させた。グローバリゼーションは当然にかけ離れた社会をも激変させる。ブッダの時代には、それまでインド社会を統治していたヒンドゥー教の司祭者階級ブラマンの呪術的秩序に対抗して、その下の軍人階級のクシャトリアと商人階級のヴァイシャが明晰な精神性を求めていた。彼らがブッダのスポンサーとなり、ブッダの死後も仏教を広める主体となった。勿論カースト最下位のシュードラ階級、カーストにもみとめられないまで差別されていた不可触民階級ダリッドも仏教を歓迎した。仏教に、カーストを超越した真理を感じ取ったのである。



ブッダの時代はユーラシア大陸全域に渡って、政治経済文化の大革命が進行した時代だった。当時の文化の主流であった哲学と宗教界の主要人物が革命を象徴している。まず、その先駆けとなったのは、ユーラシアの回廊、ペルシャに東西南北の各地から流れはいる民族や文化を搾取し、人類史初めての普遍的宗教、拝火教を創設したゾロアスター。それが紀元前600年頃。その100年後の紀元前500年頃にインドでブッダ、中国で孔子、老子。続いて紀元前400年頃にはギリシャにソクラテス、プラトン、アリストテレス。ユーラシア大陸とアフリカ大陸の回廊であったイスラエルには旧約聖書が成立している。その天国と地獄という二元論は、ブッダと同時代頃に母国が亡ぼされバビロンに幽囚された折、ゾロアスター教に影響された結果だという。紀元前323年、アレキサンダー大王は、ギリシャ、ペルシャ、メソポタミア、エジプト、インド西北部、中央アジア南端に至るまでの大帝国を成立させ、中国を除く東西文明を融合した。仏像もその時代から作られ、ヘレニズム文化の象徴となり、中央アジアを経て中国、日本まで伝わった。人類史上初のルネッサンスがユーラシア各地でシンクロした。
 
 また、ブッダとほぼ同時期に、当時の辺境イタリア半島にローマ共和国が成立した。次第にケルト人やカルタゴ人を征服、地中海、黒海、大西洋に至るローマ帝国へと成長、片や中国も孔子、老子などの出現した混乱の春秋戦国時代を秦、そして漢が統一し、唐、宋と続く漢民族系の大帝国へと成長した。それらの帝国はペルシャ帝国を真似た。首都を核とした道路網、早馬による駅伝、官僚と税制、度量衡と通貨と文字の統一、巨大建造物や祭礼による権威の誇示が、帝国の基盤であった。仏教の普及も、インドが漢とローマ帝国間の中継地として栄えたからでもあるという。当時、このビハール州一帯は、インドの官と権力の中心であった。

 
 インドから見ると、そのユーラシア大陸の両極に誕生し、ブッダの時代以来約1000年間に渡って栄えたアーリア系のローマ帝国と漢民族系の漢、唐、宋帝国、両者の間に興亡したペルシャ、アーリア系のパルティア、ササン朝ペルシャ帝国、インド・アーリア系のマウリア・クシャーナ・グプタ、ヴェルナダ帝国などの関係が見えてくる。そのパターンを翻したのは、7世紀に東西貿易により力を得たアラブ人である。ムハンマドの開教した当時商業的に最も公平なイスラム教を信じるや、またたく間にインド北西部から地中海南岸、スペインまで征服した。そのサラセン帝国を継承したアーリア・モンゴル系のセルジュック・トルコ、オスマン・トルコ帝国、そして中国北方のモンゴル人が12世紀に驚異的な早さで成立させた史上最大のモンゴル帝国である。国際的な貿易と文化交流が、これらの大帝国間で活発に行われた。

 タージマハールで象徴されるインド文明の黄金期を創った16世紀からのムガール帝国は、その二つの遊牧系がティムール帝国に再び統一され分裂したあとインドを占領した、同じ中央アジアからのトルコ・モンゴル系である。そのように、イスラム帝国に発生した7世紀からの1000年間は遊牧民族独断場の時代だった。元から中国を取り戻した漢民族系の明も満州族の清に、西ローマ帝国は中央アジアから流れたフン族に追われた東欧辺境のアーリア系ゲルマン人に亡ぼされた。北欧辺境のノルマン人は、北フランスからイギリス、そしてロシアへと進出し、現在のヨーロッパを形成した。中央アジアからアーリア・モンゴル系オスマントルコ族は、西ローマ帝国を継いだビザンツ帝国を亡ぼし、バルカン半島からハンガリー地中海にまだがる大帝国となった。仏教はムガール帝国以前に北インドを占領したアフガン系イスラム軍により、最後の息の根を止められていた。

 
 仏教寺院が中産階級の富を蓄積し、同じ階級制度を否定する普遍的宗教であったために、狙い撃ちされたのである。ヒンドゥー教徒は余りにも人口が多く、教義も定かではなかったので税金を取り立てるために利用しただけで、特に改宗も強制しなかった。そのイスラム軍が西から攻撃する前に、仏教の中心ブッダガヤでは、信者が土を山となるまで積み上げて聖地を覆い隠し、仏教徒は髪を伸ばしてヒンドゥー教行者に扮装した。結果はインドの仏教徒消滅、そしてブッダガヤの聖地さえも、どこにあるのかも判らなくなった。

 ブッダガヤの聖地を発見したのは英領時代のイギリス人考古学者カニンガムである。彼は、西遊記の主人公、玄奘が7世紀に仏教経典を求めて陸路インドへと13年間の旅をした後に、口述筆記させた記録、大唐西域記に基づき、ブッダガヤを発掘した。玄奘は各地の方位と距離、人口、統治、文化を正確に記憶していた。カニンガムは、ブッダがその下で悟った菩提樹の真系と言われるスリランカ西南の仏教聖地アヌダラプーラに立っている菩提樹の枝をブッダガヤの元の場所に移植した。仏教聖地の核は再生したのである。僕は1970年代初頭、その木が黄金板で補強されたまま立ち続けているのを、アヌダプーラに見に行ったことがある。出家したアショカ大王の息子が植えた木だ。インカ人みたいなスリランカ人が黙々とそこで祈っていた。樹齢2000年以上の聖木は、信者の祈りを受け続け、聖なる老人のように見えた。カニンガムは他の仏教聖地も発掘した。今やインド最貧地区のひとつとなったビハール州の僻地ブッダガヤにも、イスラム侵略と大英帝国の支配、玄奘才蔵の旅を可能とした大唐帝国の威光というグローバリゼイションの名ごりが残っている。


 まったくのこと、大英帝国こそアーリア民族の主流ローマ帝国の継承者と言える。その流れが新大陸に波及してアメリカ帝国となった。大英帝国が先発のポルトガル、スペイン、オランダを追い抜き世界最大の植民地帝国となった要因は、産業革命の動力源、蒸気機関を発明し、綿繊維の大量生産を成功したからである。18世紀末以来、特に植民地インドに綿花を生産させ綿製品をインド人に売るという双方向のグローバリゼイション経済を、インド人手織り職人の右手を切り落としてまでして成功させたからだ。その裏には、ブッダの時代の少し後の紀元前586年、バビロニアに連れ去られたユダヤ人が以来転々とした末にソフト部門を担当している。

 土地を持てない故に金融、情報産業に巧みとなったユダヤ人は、マルコポーロやコロンブスのように新しい通商ルートの開拓にも積極的だった。しかし彼らのアイデンティテーの元であるユダヤ教が旧教国より排斥されたために、カトリックを否定したプロテスタントのオランダと、英国独自のキリスト教を制定したイギリスへと移住した。オランダは東南アジアとの香料貿易を独占、17世紀に覇権を築いた。イギリスには石炭と鉄鉱石資源があり、鋼鉄生産は大砲や工作機械、石炭は蒸気機関車と蒸気船という、産業革命と植民地占領支配に適した条件があった。イギリスは世界の軍隊、工場、銀行、運輸業者、官僚となった。イギリスの産業革命進行と並行してアメリカ合衆国独立、フランス革命が起こり、両者も自国民の目指す自由、平等、博愛の理想と逆の帝国主義を他国民と他民族に強要していった。


 インドは、大英帝国の王冠に輝く最大の宝石となった。と同時に、19世紀を通じて北インド各地で大規模な飢饉が立て続けに発生し、一千万人の単位で餓死者が出た。輸出向けの単一種栽培、プランテーションを強制された農民が、自身の食料も育てられなかったからである。イギリスはアメリカ先住民に天然痘菌の付着した毛布を与えたり、彼らの食料であるバッファローを殲滅した。イギリスはカリブ海、アメリカ南部、ポルトガルはブラジルで、アフリカから一千数百万人の黒人奴隷を連れ去り綿花、タバコ、コーヒー、サトウキビ・プランテーションで、スペインがメキシコとペルーで、先住民を銀鉱山で酷使して人口を百分の一と減少させ、オランダがインドネシアでコーヒー、サトウキビ、藍などの栽培にジャワ人を、と帝国主義は非情である。それは、石油資源獲得のためにイラク戦争で劣化ウラン弾を多用した今世紀のアメリカ帝国主義でも続けられている。戦争を経なくとも、現代国の産業原料が弱い民族の土地から奪われ、彼らの生活環境が汚染され破壊されている。日本を含めた現代国は加害者側である。このカルマを知るためには、その実態を歴史的把握する必要がある。
 
 イギリスは清帝国にも機械化による綿製品を売り込もうとしたが、人口の多い農家の副業従事者と綿布織工は明帝国以来の高品質低価格で競争に勝利した。イギリスは当時産業革命とポテト栽培で人口急増の上に工員に普及した昼飯代わりの砂糖入り紅茶のための茶葉を大量に輸入しなければならなかった。一方的に銀がイギリスから中国へ流出、そこでインド植民地で栽培させたアヘンを中国に密輸出した。当時の中国人は、異民族満州人による支配が長年に渡り虚無的だった。また戦争も少なく、サツマイモ、トウモロコシがスペイン人経由でアメリカ大陸から導入栽培された結果、人口も失業者も急増。アヘンは元々快楽指向のある中国人に新たなる現実逃避の嗜好品としてバカ受けし、銀は逆流、中国は社会問題を抱えた。

 当然アヘンを禁止した清帝国とのアヘン戦争に勝利したイギリスは、香港を領有、上海など5港を開港させ、清国の関税自主権を奪った。移動して射程を調節できるたった4艘の蒸気船の火砲に、眠れる獅子と恐れられていた清国軍のジャンク艦隊は炎上した。以来、イギリス海軍は全て蒸気船となった。日本の明治維新は、その結果に驚いて成されたのだった。

 話をブッダガヤに戻す。イギリス人考古学者が発掘した仏教の中心的聖地に、やはり英国植民地となった仏教国ビルマから巡礼が訪れるようになった。彼らは菩提樹の廻りに手頃な大きさの卒塔婆(半円球の石台の上に小さな塔を載せ、悟りの状態で座るブッダを象徴する。ヘレニズム文化以前には偶像はなく、この石の塔の中にブッダの舎利を収め、祈りの対象としていた。インドではストゥパと呼ばれる)を建てた。

  ブッダガヤには、ヒンドゥー教三大神のひとつ、シヴァを信仰するシャンカラ・チャリア派の僧院があった。その派は9世紀に、インド南西端ケララ州出身の聖者、シャン・カラチャリアが創った。彼は20代終わりに死ぬまでインドの端から端まで行脚し、仏教寺に法論を拝み打ち破った。当時は、法論に負けると勝者の宗派に変えなければならなかったから、シャンカラ・チャリア派は急成長した。その勢いは以来インド哲学の主流を成してきた。

  当時、ブッダガヤのシャンカラ・チャリア僧院は極めて質素で厳しい、一所不住、一畝不耕、一生無籍、一心無私の、日本でも存在してきた行者の戒律を守り、生涯独身、旅と瞑想に明け暮れていた。

 
僧院の長はマハンタと呼ばれ、弟子の中から最も精神性の高い者が選ばれ、その地位を継いだ。マハンタは、そのビルマ人の巡礼が建立したストゥパを洗い清めた。祭礼、プージャを捧げた。その行為に感謝して、ビルマ人は金を与えた。マハンタは、その金であたりの土地を買って行った。ブッダガヤの脇には500メートルほどの川幅をもつニレンゼンガ河が流れているが、乾季には水量ゼロに近い砂浜、雨季には度々洪水を起こす。耕作条件が良いとは言えない土地だから、地価は安かったのだろう、代々のマハンタが買い占めた土地は広大なものとなった。

  シャンカラ・チャリア僧団はこれまで通りの厳しい修行、旅する行者の受け入れ、村人の指導を続けてきた。歴代のマハンタも、弟子の中から最も優秀な者が継いだ。だが、絶対量の土地を持ったことから、領主のように振る舞うマハンタも出た。  

 貧しい土地には不可蝕民、ダリットが押し込まれている。文明、つまり都市と国家がインドに進入するまでは、狩猟採集民のみがいた。ダリットはその子孫である。中央アジアからアーリア民族が北インドに移住したのは、紀元前1500年。それ以前の800年間は、インダス・ガンジス河古代文明の華を咲かせたと言われるドラヴィダ人が支配していた。ドラヴィダ人は、メソポタミアからインドに移住したらしく、言語もアーリア系とは異なり、日本語と似ている。インド先住民、ダリットの背は低く鼻が丸い。そして3千年以上差別されてきたから、その苦悩が表情に刻まれている。ブッダガヤのダリットの中に時折、鼻筋が通り背も高い者を見かける。領主と化した一部のマハンタが、毎夕のようにダリット部落に赴き、気に入った女性にその夜の御伽をさせて出来た子供の子孫ではないかと言われている。
 
 
 僕が初めてブッダガヤを訪れた1970年代の初頭、マハンタは絶大な権威を振るっていた。その住居は宮殿並にぶ厚く高い塀に囲まれ、中には耕地、寺、居住区が広がっていた。拝詣、ダルシャンの時間には、村人が列をなし悩み事らしきを訴えていた。それに頷き一言返答することを繰り返す半裸のマハンタ。中央の台座に敷かれた虎の皮にあぐらをかき、一寸でっぷりとはしていたが、シヴァ神の化身を想わせる迫力があった。僧院もガッチリとした塀に囲まれ、手の平ほどの鉄鋲が打ち付けられた入口の近くには、数頭の象が居並ぶ小屋があった。象は洪水の折に、村人の救出に活躍した。当時のマハンタは、その地帯で唯一の自家用車を持っていた。インドが独立してからは、ビハール州知事を務めた者もいる、という政教一致の実力者の眼光には脱帽せざるを得なかった。

  あれから40年経った。今回訪れたマハンタの宮殿は殺風景に見えた。外塀の入口両脇に立つ石像も色褪せていた。中塀にある扉は通用門のみが開き、かつては常に10数人はたむろしていた旅の行者、サドゥーはひとりだけ。小さな寺に囲まれた中央の広い大理石の高床に座る中年のマハンタは、夏というのに半裸ではなく、オレンジ色の半袖を着て座っていた。取り巻く者は僧団の事務係らしき二人のみ。虎の皮も敷いていない。拝詣の時間だというのに、村人はしばらくしてから老人がひとり来ただけだった。離れた小寺の端に座ってマハンタの気を受けると、諸行無常を悟った人物のように淡々としている。ただ、時折こちらに注がれる視線は、しっかりと僕の正体を見抜いていた。老いてもまださ迷うばかりなのか、と。入口の外に待つピカピカに磨かれた赤い小型車に向かうマハンタに僕は合掌した。彼は、世界がいかに変わろうと我が道を行くのだぞ、とでも言うように見返した。ひとりだけのサドゥーが、乗車する前のマハンタに腰を大きく屈めた。両掌を彼の足元に触れた。マハンタは静かに車中へ消えた。その一連の流れが、ブッダガヤ、この40年間を象徴していた。

 

 ブッダガヤに行くには列車のガヤ駅から三輪タクシー、サイクルリキシャ、乗り合いの軽四輪車かバスを使う。ガヤの街は、ビハール州ガヤ郡の郡都である。なのにこの街は、駅のプラットホームからして何ら変わっていなかった。午後の熱い路上から避難したとしか思えないホームレス風の貧民の群があちこちに座り込み、通り抜けるのに一苦労した。その姿は、訪れる度に密度を濃くして、列車から降りたとたんに人口増加が続いていることを思い知らされるのだ。出口に向かう架橋の上で話しかけてきた学生だと言う数人も、外で待っていた三輪タクシーの運転手も、インドで最も貧しい地帯だというのにコンプレックスの片鱗もない。ただ単にあっけらかんと明るいのだ。そして男っぽい。この街の時は止まっているのではない、あるがままの元気さで流れ続けているのだ、とホッとさせられる。

  三輪タクシーの運転手は、後輪の間にベルトを巻きつけ、勢い良く引っ張りエンジンを始動させた。ガヤの街の道路も以前のままに曲がりくねり、所々舗装がはげている。人力動力、畜力でうごめく様々な車両がスレスレに互いの間を縫って行くのも、その端で歩行者が、汗と埃にまみれた肉体で車両のカオスを押し分けて行く様も昔と同じ。開けっ放しの飯屋の揚げ物にワンサカとたかる蝿。灰色に澱むドブの汚水、目鼻から脳に抜ける臭気には、馬車、トンガを引く酷使され尽くされたみたいな馬の小便らしきも交じっている。クラクションにかけ声、ぶっ壊れそうなエンジン音。暑く蒸され気味の空気までが叫んでいる。唯一の変化は、ドブに溜まったプラスチック袋らしい溜だ。これをやり続けて疲れを知らないガヤの住民とは何者なのだ。

    多分、疲れを感じたらとたんに死ぬからだろう。事実、前日まで元気一杯だった40才前後の三輪タクシーの運転手が、翌日の暑い昼下がりに、うたたねしてるみたいにハンドルにうつぶせとなり死んでいた、という話をその直後に聞いたことがある。僕も親しくしていた男だったが、アッそうか、と爽やかに感じただけだった。それを伝えた仲間の運転手もごくありふれたことのように淡々としていた。南の国の死は、大地に真っ逆さまに落ちる夕日直後の闇のように、アッと言う間に訪れる。インド人の平均寿命は64才。僕はもう、それより3年間余計に生きた。アッという間だったが人生も歴史の流れにあると感じるのは、すさまじい時代の変化に翻弄され続けたからだと思っている。だが、ガヤでは、多くの人が、一人ひとり、瞬間瞬間を生き抜き次々と死に、次々と生まれて来るサイクルがぶ厚い歴史となっているように見える。


 三輪タクシーに30分ほど揺られて着いたブッダガヤ大塔寺近辺は、新築の2・3階建が目立っていた。夏の農閑期に連れ立って旅する、他所者のインド人団体客はインド各地からのようだ。女子供混じりのカラーフルな集団が、暑いのに良く喋りながら団子となって名所から名所へと歩き回っている。今流行の、ディスカバー・インディア組である。それにしてもインド人の顔も体型も、出身地やカーストによってなんと様々なことだろう。不可蝕民ダリットから転宗したインド人新仏教徒の一団のみは、規律正しく歩いている。新興のマイノリティとしての自覚が、一人ひとりの表情に見て取れる。3000年以上も虐げられてきた先住民は、インドの州で日本と同じくらいの最大の人口を持つウッタル・プラデッュ州では、女性党首マヤワティに率いられた大衆社会党が絶大な勢力を持ち、僻地では毛沢東主義のナクサライトが、独自の武力と税制を持つ自治区を維持している。カーストによる職業の制約が無い新興のコンピューター産業で活躍するダリットも多い。このブッダガヤを訪れるインド人の群からも、インド史上かつて無かった最底辺からの社会変化を見て取れる。

 ブッダガヤは、国際的かつ全国的なスケールで押し寄せる人の群と金の勢いに激変した。あらゆる仏教国の、しかもその各宗派の、大きな寺が郊外まで建ち並び、道路脇には店舗、飯屋、ホテル、土産物屋がズラリ。そして商業地区の背後には、4・5階建てのアパート、マンション、大家族住宅がひしめいている。人口増加の結果、ブッダガヤ村はブッダガヤ市に格上げされた。道に商品を広げていた露天商は消えた。世界遺産に指定されてから規制が厳しくなったようだ。代わりに屋台の土産物屋が増えた。それもインド人観光客向けの安いアクセサリーを一様にぶら下げている。外人を相手とする仏具や骨董店は、夏の間商売とはならないのか、店主仲間が集まってトランプに興じている。彼らの多くは、1970年代にはあどけない少年だった。当時訪れた金持ちの主流であった日本人仏教僧に即席の日本語を繰りながら腕にゾロリとぶら下げた数珠を高値で売りまくっていた下層階級出身者である。今やブッダガヤの実力者となった。その流れは今も続いている。街の角々から、日本語を話す若者が話しかけてくる。最早数珠は持たず、ガイドや高級な土産品やら骨董品へと誘う。そんな若者の100人ほどが、日本人女性と結婚し、日本に住んでいる。

 ひんぱんに、携帯電話片手に大声をたてている者に出くわす。中にはボリュームを小型スピーカー並に上げて、数人が取り囲んで話し合っているグループもある。インドの人口12億。そのうちの3億5千万人が携帯電話を持っている、という統計がある。インターネット人口も、中国、アメリカ、日本に次ぐ世界4位。打ち上げた人工衛星の数は世界7位。自動車生産台数9位。原子力発電所の数8位。兵器輸入額が中国に次ぐ2位。核弾頭も60発以上所有。その上に、穀物自給率は100%を越え、内需が拡大しているために1997年のアジア通貨危機にも、現在進行形の世界同時不況にも影響されなかった。2050年には16億人という世界一の人口大国となる。当然に若年労働者の比率は高いから、その頃には、アメリカ、中国に次ぐ経済大国になっている。インドは世界を影響する。


 ブッダガヤの中心は大塔寺である。ブッダの悟った場所に菩提樹、その脇にはスリランカの仏教宗団マハボディ・ソサエティが建立した50メートルはある先細りの大塔が立つ。緑濃く、池もあるから、市街の熱から避難するには絶好の場所となっている。小山の下に埋められていたのを発掘したから、裸足となって入口から階段を下りる。  警備が厳重なのに驚いた。入口は勿論のことだが、菩提樹の廻りにも目が光り、最初その前に座った時には、突然カーキ色した警備員が僕に向かって駆けてきた。手にした六尺棒の先端を僕の前の大理石の床にゴツンと打ちつけるや、再び風のごとく立ち去った。たぶん、僕の常用する二本のロフト・アンド・クラッチ式のアルミ杖が武器に見えたのだろう。昨年11月のムンバイ多発テロ事件より、特に観光地の警備が強化されたという。大塔寺近くの路上でも、特殊警察が小型の軽機関銃を下げて徘徊しているし、有名なタージマハールなどは、入口近くに積み上げた砂嚢の内側から、兵士が重機関銃を突き出している。

  カシミール問題は、イギリスがインド支配の中で煽った宗教対立、分断統治以来の長い歴史を持つ。1,500万人の避難民を出して分離独立した1947年以来、インドとパキスタンは3度戦火を交えた。それが経済発展の足を引っ張った。今や両国は互いの首都も大都市もまたたく間に壊滅できる60発以上の核ミサイルを持つから慎重となった。バングラデシュが独立した1971年以来、大規模な戦争をしていない。互いの原子力発電所を攻撃しない、という軍事協定も結ばれている。代わりに、テロ事件が起こる。ただし、このビハール州では、ヒンドゥー教徒とムスリムは和気あいあいとして付き合っている。その姿にはホッとさせられる。

 大塔寺の廻りには大理石を敷きつめた巡回道があり、僕も巡礼の気分となって毎日そこを訪れる。アジアのあらゆる人種が右回りに歩き続ける流れに乗ったり、道脇に座って人の流れを眺めることを繰り返す。一番多いのはインド人観光団体だが、彼らもここだけは静かに歩く。インド人新仏教徒の団体は菩提樹近くに群れなして座り、彼らを率いる僧の長い説教を聞く。徐々に判別出来るようになってきたチベット人、ビルマ人、タイ人、カンボジア人、台湾系やマレーシア系などの中国人、韓国人、ラオス人、ベトナム人、モンゴル人、ネパール人、日本人、東西ヨーロッパ・北アメリカ系西欧人仏教徒。オンパレードには、飽きることが無い。同じ仏教ながら、民族によって歩き方祈り方が微妙に違うのには、居ながらにしてアジア全域、そして西欧の旅をしているみたいな気分となる。

 その巡回路の外側に広い空間が開け、人間の数倍ほどの大きさのストゥパが適度な間隔で立つ。その間にも瞑想する僧や信者、中には、豆やら筮竹を出し入れして占いめいた儀式を一人で黙々と続ける者もいる。そして大木が深い影を落としているから、あるがままを見て受け入れているだけで、時は何時の間にか過ぎて行く。僕はあらゆる宗教の中庭までは入る。そこにただ座る。無信心ながら心のあり様に関心を持つ旅人として。中庭を流れたり止まる人たちの気を感じとる。

  あらゆる宗教に共通しているのは清潔な空間と人の立ち居振る舞いである。しかし各々には微妙な違いがある。この中庭の仏教徒は、きわめて冷静で客観的、まるで精妙極まる精神科学のラボに出入りする科学者のように、自分の研究対象に集中している。スリランカからの巡礼宗団には近寄り難い真剣な一体感がある。だが、彼らも他の三々五々、または個々に訪れる者は他の者に全くかまわない。勿論僕も放っておかれて、自分が存在していないかのように感じさせられる。なのに、あたりはワクワクとする生命の喜びに満ち、社会主義的でもなく土着的でもない人間関係に恵まれているように感じてくる。各々が有能で発展的である。徐々に僕は旅の止まる時が来たら、仏教の内側に足を踏み入れて見ようか、と思い始めてきた。何時の間にか彼らの目指す悟りとは何なのだろう、と自問しているのだ。

  今回ブッダガヤの宿は月極のアパートとした。寺の巡礼用宿舎は無信心の者には、安いが窮屈だ。普通のホテルはやけに高値となった上、その廻りも車や人で騒がしい。大塔から1キロメートル余りの、ブッダガヤ市の外れ、郊外の地平線まで広がる水田地帯との境界に近い住宅地にそのアパートはあった。道は広いが未舗装。両側に汚い3階建の住宅がびっちりと並び、途中に日本の城の天守閣みたいなモンゴル寺。その向かいの3階屋の一階、ベッド二つと机一つで一杯となるサイズの部屋を契約した。隣の3階屋との間に人ひとりがようやく通れる通路が通っているだけだから、縦の鉄格子の入った窓の向こうは見るからに安っぽいレンガ壁。その昼でも暗い通路に溜まる冷えた空気のお陰で、室温は過酷な夏にしては一寸ひんやりとしている。

 郊外だから車も通らないから静だろうと思ったが、隣のアパートの住民の声はすさまじかった。朝、明るくなったとたん、子供の群が一斉に吠える。母親がそれに答えるのもボリューム制限無し。父親らしいのが合間に怒鳴る。隣の3階建ての人口密度はかなり濃い。ビハール州はインドで最も人口増加率が高い方だというのが心底納得できる声量である。夏は休校中なので、子供の声は一日中鳴り響く。夕飯時、再びあまたの家族が一斉に、のピークが訪れる。だが、それがムニャムニャとなり、しばらくすると突然消えてシンとする。まるで誰も居ないかのような沈黙の時が訪れる。その頃、いつものように停電となる。濃い闇がどの部屋にも流れている。僕も安心して眠りにつく。今日一日精一杯生き抜いた、という満足感に包まれて。

  このアパートの大家は、たぶん60才は越えている背の曲がった老眼鏡の老人を長として、その40才半ば位の息子と妻、子供は中学生男女が二人、上の子はどこかで留学中なのか、夏休みの里帰りらしい高校生も一時見かけた。この一家は以前、大塔の裏の下層民の部落に住んでいた。牛飼いのカーストだった。ある時、スリランカの大統領が巡礼に来て、大塔のすぐ裏にこんな汚い部落があるなんて、と州知事にクレームをつけた。そこで、部落は立ち退きとなり、州政府は代わりに、この場所を提供した。

  彼らが引っ越したばかりの1970年代の半ば頃だった。突然畑の中に同じ2部屋ほどの構造の小さな家が互いの間隔を空けながら、規則正しく並んでいるのに驚いたことがある。水道も引かれていたから、州政府の建設したものだ。住民は、それまで軒をクニャクニャ連ねた土壁、曲がりくねった道、そこを流れる汚水、という典型的な下層民の部落から移ったばかりで寂しそうだったが、今や、大塔からここまでの道にはビルが建ち並び、途中には広い敷地の高級レストラン2軒とシッキム寺が建つ。そして彼らは、与えられた敷地をフルに使って大きな3階建てのビルを次々と建てた。あの貧しかった人たちが、ビルのオーナーになった。あたりの地価は急騰している。近くに野菜市場も移転してくるという。彼らが以前住んでいた土地は公園となり、うっそうとした大木が茂り、地元人にとっても旅人にとっても、過酷な夏の陽光から守ってくれるオアシスとなっている。これもブッダガヤ激変の一部である。


 イギリス植民地下のインドは第一次大戦に対英協力をしたが戦後に自治も与えられず、第二次大戦にはより大規模な兵員、物資、資金の協力をすると共に、ガンディーの伝統的な綿糸手紡ぎ車、チャルカによるイギリス製機械工業綿布への対抗運動、塩の専売に抗議する塩の行進などのインド大衆を動員した非暴力直接運動、そして自国民による産業育成を通じて団結し実力を蓄えた。イギリスは全インド・ムスリム連盟の結成を支援して、ガンディーなどの率いるインド国民会議に対抗させ、南アジア分断の布石を打った。

  第二次大戦に消耗したイギリスは戦後、インドの独立を認めざるを得なかったが、インド・パキスタンの分離独立という、分断統治構造を残し、南アジア勃興にブレーキをかけた。ガンディーはヒンドゥー教狂信団体員により暗殺された。それは彼の悲願であったヒンドゥー・ムスリム共存が終焉したことを意味する。かつてムガール帝国のアクバル、シャージャハン王の下で成功し、当時の世界で冠たる富と文化の華を咲かせた基盤であった双方の共存は成らず、3度にわたるインド・パキスタン戦争、中印紛争などに資力を費やした。現在高度経済成長中ではあるが、インド人ひとりあたりの平均賃金は日本人の1.3%という貧しさにある。

  1947年に独立して以来、インドは一貫してネルーと彼の娘インディラ・ガンディー率いる国民会議派、ネルー王朝が短期間の例外はあるが、約40年以上に渡り続いた。ネルーはカシミール出身のブラマン階級、父はインド最大の人口を持つウッタル・プラデッュ州アラハバード市の弁護士という、古代からのエリート層を継承している。独立直後のインド・パキスタン戦争の後、国内では議会制民主主義と社会主義的政策、国際的には非同盟外交を推進した。

    当時、次々と独立したアジア・アフリカ新興国の著名な指導者と共に途上国群を結集しようとしたが、1959年、チベット暴動、ダライ・ラマ14世インド亡命後、インド北部に侵入した中国との紛争に敗れた後には、急速に米ソへ接近、失意の内に亡くなった。1968年、彼の死後の空白に第二次インド・パキスタン戦争。翌年首相となったインディラ・ガンディーは1971年の第三次インド・パキスタン戦争で勝利、バングラデュの分離独立を確かなものとした。国内では反対派を厳しく処罰、1984年にシーク教徒分離独立派のこもった黄金寺院を攻撃、制圧し、自身はシーク教徒のボディガードに暗殺された。同情票もあって首相となった元民間航空パイロットだったラジブ・ガンディーは、スリランカの多数派で仏教徒のシンハラ人と少数派で南インドから移住し続けたヒンドゥー教徒のタミル人の女子自爆テロリストに暗殺された。

 
 その後を受けて、史上初の南インド人の、そして初の下層階級出身のナラシマ・ラオが首相となり、ようやくインドは経済自由化へと大きく転換を果たすのである。機を同じくして中東ではイラクを多国籍軍が攻撃、湾岸戦争が起こり、ユーラシア北方では、インドを長年サポートしてきたソ連邦が崩壊した。  自由経済システムは、1997年に民族の象徴としての大統領職に、初めて不可蝕民出身のナラヤンを就任させた。そして翌年、インドとパキスタンは、原爆実験をした。僕はその時もインドを訪れていた。僕の愛した非暴力、そして精神的なインドはどうなるだろう、と多くの人と出会いを続け、旅行記を<梨の木舎>から出版した。

  自由経済を毛沢東の死亡した1976年以降に目ざし始めた中国が、かつての敵、日本と日中平和友好条約、アメリカと国交正常化、韓国と国交樹立を次々と果たし、規制を緩和、経済特己から外資を導入したように、2003年にインドは初めて、チベットを中国領と認め経済交流を活発とさせ、2007年にはインドの貿易相手国として中国は、輸入で第1位、輸出で3位という地位を占めている。このようなインドと世界の急速な変化は、当然に国際的な宗教である仏教の核、ブッダガヤをも巻き込んだ。その変化が加速度をつけてきたのは、経済自由化された1992年以降である。僕が1ヶ月借りたアパートの家族や近所の人たちも、その頃から激変し、今もすさまじい変化に日々対応している。1960年頃から始まった日本の高度成長期もそうだったが、ともかくがむしゃらに働けばそれだけ生活は上昇する。だから皆がボルテージを上げることになる。若年層が多いことも、その勢いを更に煽っている。だから少子化の進む国から来た者は、ひっくり返るほど圧倒されるのだ。そして、この勢いの先の2050年頃、インドのGDPは、日本を抜く。アメリカ、中国に次ぐ世界3位となる。


 世界はこれまでの貧しく精神的なインド、というイメージから、政治経済軍事大国インドへのイメージへと転換するために、今から心を準備する必要に迫られている。僕が20代よりいつの間にか通算8年間ほど訪れたり居住してきたインド。その僕も、最早ノスタルジアに浸ってなんかいられない。リアルな時代の熱風がインドに巻き起こっている。

 その勢いにアメリカは、イラン、中北朝鮮に対するとは逆にインドと原子力協定を結び、中国とイスラム圏への抑止力として原子力のノウハウを伝えることとなった。経済的にもインドの主要輸出相手国である。そしてインドは、ロシアから最も多くの武器を買っている。

  日本はインドの貿易相手国としては10位前後。インドを訪れる旅行者も減っているという。この無関心さは、現在進行形を含む歴史観の欠如が原因ではないだろうか。いかなる地域にも歴史は流れ続けている。身の回りの歴史、そして世界の歴史を見極め、自分の人生が、人類史の中でどのように位置しているのかを考察したいと僕は思う。その成果を次の世代に繋げようと。未来はそうして開かれると信じたい。

 そして、日本が世界全体の中でどのような位置を占めているのか、どのように世界と関わるのかを互いに見つめなければならないと思う。

  知恵のある国際化する必要がある。

        意識的にビジョンを育み、戦略的に行動する時である。

                    それには歴史に基づいた客観的な見方をしなければいけない、と僕は思っている。

 このブッダガヤにも日本は影響している。ニレンゼンガ河にかかる長い橋は日本の援助で出来た。ここの実力者たちはジャパン・マネーが流れ込んだ結果であり、国際結婚をした地元民だけでなく、ここの市長さえも日本を訪問し、将来は日本の街のように清潔で犯罪のない街としたい、と言っている。ビハール州と秋田県が姉妹県となる。互いに歴史を作って行くのが共存への道につながっていく。

  僕も一介の旅人としてこの街を訪れ続けるだろう。この大平原で悟ったブッダを想う。少年時代より知っている友人を訪ねる。ささやかな交流の積み重ねが歴史の主流であると思う。そして日本国内でも、体験をシェアーしあって、歴史に参加したい。平和憲法の危機、米軍基地や原子力発電所、自殺者と鬱病、ホームレス、フリーター、孤独死などの問題が露わとなっている今、コミュニケーションが問われている。

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