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4月17~18日

4月17日(土)
 教会の外に出た。肌寒い。ここは札幌より少し北にある。あたりのアスファルトはまだずぶ濡れだった。夜、かなり降っている音がしていたのを思い出した。例のごとく6時に祈りの集会。そして、JFK空港がアイスランド沖の火山噴火により閉鎖のニュース。新人が自己紹介する。中にはフロリダから来た親子がいる。息子の一人がかつて参加していて、影響されたのだそうだ。まったくウォークに参加している人は各々色々な関わりでやって来ている。5人ほどの先住民は、一昨年の先住民権利ウォークに参加して目覚め、今回の核をテーマとしたウォークにも参加した。シックス・ネーションの西端セネカ族の土地、バッファローの南48キロに核廃棄処理場があり、地域の住民やそこで働く労働者に深刻な被害をもたらしている、という事実をアピールするためだ。
 多数派は白人。コーディネイターのJさんは73才。いつもケイタイで問い合わせを受け付け、また、ウォークのための宿舎、サポート・カーの手配等を純さんに協力してやっている。勿論、毎日歩き通してもいる。元軍人、元警察官、ニューヨーク州の人。その日、通りかかった街の人が、一日だけ参加する例もある。フランス人3名は若く、ヨーロッパ、南アフリカ、オーストラリアのウォークにも参加している。日本の若い女性2人が、こまめに料理をやり続けている。とても健康的な米、玄米に菜食が主だが、その街のボランティアが持ち込むパンやパスタやバター、チーズ等を組み合わせた豪勢な食事が毎回出てくる。昼食はサンドイッチを屋外で。朝夕はバイキング・スタイル。勿論マイカップ・マイディッシュ・マイスプーン&フォーク。
 Amsterdamの街を出るまで宿泊した教会の牧師が交通整理をしながら先導した。道脇の住民が数人、これは何のウォークですか?と尋ねた。車道を歩いていてもクラクションを鳴らしたり、手を振ったりして励ます運転手がいる。純さんによると、30年前は「ブラブラせずに仕事をしろ!」と、怒鳴られることも多かったという。道に身をさらすことで、時代の変化を感じとれるのだろう。毎年ウォークを続けている70才代前半の年配者たちには、ゆるぎない存在がある。顔の厚い皮、地に降ろした身体。常に落ち着いている。7~8キロメートル歩くと、小雨が降り始めた。風も強くなり、急激に冷え込んだ。このウォークを3月7日にバッファローで始めた頃には、雪も降ったという。

 今日僕は、5月2日に民間団体がニューヨークで開催するワークショップの申し込みを、苦手なコンピューターを通してやらなければならない。現地のサポーターの車で、彼の自宅にて、彼に手伝って貰い申し込みをした。それから、土曜でも開いているモールの郵便局で、原稿をいつもタイプ打ちして、ウェブに載せてくれる友人に送る。それがぶ厚かったので小包扱いとなり、用紙に内容等を書き込むこととなった。9.11以来、あらゆる面で規制が厳しくなったということだ。郵便局にパスポート取得できる、とある。それは以前カナダに免許証だけで行けたのが、9.11以来不可能となったからだ。モールを出た所で、ふと同行の彼がつぶやいた。「昨日ここで少女が空気銃で撃たれて、首にケガしたということだ。犯人はまだ捕まっていない」。見れば、SECURITYと書かれた車が止まっている。
 ウォーク一行は既に23キロメートル歩いてSchenectadyの街の教会に到着していた。この教会も広くまた中で迷った。夕食前に街の平和運動家が10人余集まり、共に祈りを捧げた。アフリカのザンビアで唯一布教をしている75才の森下上人が、平安時代には仏教が盛んで、刑務所に蜘蛛の巣が張るほど犯罪が起こらず、死刑になった者は一人も居なかったとの話をした。ここの平和運動家は、郊外にある原子力研究所に反対しているグループだという。皆知的なのは、州都Albanyに近いからか。今日の出発点のAmsterdamのさびれ様とは違って、家も新しく立派なのが多い。

 夕食は彼らも持ち込んだ食料も加わり、何を選んだら良いのか迷うほどだった。手作りのケーキまで!談笑していると、ベトナム戦従軍した年配者がいた。当時は徴兵制でアメリカ人は自国を守るために戦うことが誇りとなっているから、ほぼ皆が喜んで従軍したが、現場では酒を飲んだりする生活が続いたという。後になって、ベトナム戦の拡大したきっかけとなったトンキン湾事件(ベトナムの魚雷艇がアメリカ軍艦を攻撃した)は、作られた情報であるのが判ったのだ。そして、退役してもその後の保障は余りにも少ないとのことだ。それに反して警察への保障は充実しているという。

 今日はウォーク参加以来、初めてのシャワーをとった。近くのYMCAまで車に乗せて貰うと、そこも迷う位大きなビルで、シャワーは20人ほどが一度に浴びれるように、一本の柱に4個ずつ水口のついているタイプだった。教会の一部屋の床に泊まる。寝る前に数人がお灸をすえて、身体を整えた。今回のウォークは計1.120キロメートル。既に半分以上を歩いた人たちの中には、足を引きずっている人も何人かいる。


4月18日(日)

 6時起床。祈り。今日は土地人が増えてウォーカーは26人。街郊外の海軍原子力研究所へ行く。ここで、原子力潜水艦の原子炉が研究され、訓練もされる。海軍はもう一つ、ハワイに同様の施設を持ち、計2万7千人が双方で働いているという。その鉄柵に祈り鶴を下げていると、マッチョな私服、そしてサングラスに黒いユニホームの警備員が4名駆けつけた。全員軽機関銃と腰に重いバッグつき。ウォークの現場コーディネイター、73才の白人Jが対応する。この研究所には、200名ほどの優秀な科学者が勤務するというが、物々しい警備の外には、広大な敷地にビルが点在しているだけだ。

 20メートルほどの川に沿った道を歩く。遅れ気味の僕を、やはり遅れ気味の太ったNが、大きなNuclear Free Futureの旗を肩に下げ、ずっとつきそってくれる。ただ二人で歩いている内に道を間違ったのではないか、と不安となり、ケイタイを試したら、初めてアメリカで通話できた。10キロメートルほど先で、旗をかかげて待っている者に出逢った。それまでは、林の中の小城みたいな住宅ばかりで、日曜なのに人の影ひとつ見なかった。「どんな人が住人でいるのか」と同行者に聞くと、「Politician」と答えた。彼らは一行の太鼓の音を聞き、窓の内側より旗の進むのを見ているのだろうか。「ここらの人たちは、市内に住んで金貯めて、郊外にでかい家を買い、その内子供がさびしいとか言うのでまた市内に移るのさ」と付け加えた。

 ウォーカーの止まっていたのは、センスの良い中位のサイズの民家だった。太鼓の音を聞いた当家の女性が、かつて純さんと会い、その後ピースパゴタにも行ったことのある人で、ピンときて家から出ると純さんに再会。お茶に招いてくれたのだ。昨日コンピューターを借りた民家に次いで、一般家庭にまた入った。広く家具調度品は立派だ。
 今朝教会を出る時に、入口に20人ほどの貧しい人たちが、日曜朝のフリーミールを待っていた。黒人と白人の老人が多かったが、皆どろ臭かったり、悲しそうだったりした。その差がどこにでもある。
 そして、今日の行進に先住民はまったく消えている。そう言えば、昨夜彼らが「明日は、西の門から東の門に入る」と言っていた。つまり、首都オルバニー近くは、白人地帯と見なされているのだろうか。モザイク状に、都市内でも各人種が別れているように、地域でもそのように互いのテリトリーを意識しているのかも知れない。まだ入国して8日目だ。判らないことばかりだ。小さな出来事を結びつけて自分なりのアメリカ像を作るしかない。だから、意識的に質問もしておらず、相手が自然に言ったことを元として、この記事も書いている。

 どこの市内も、郊外からの金持ちが戻る現象が起こっているらしく、住宅からして高級マンションか高級住宅、もう一方は低所得者アパートか、古い互いの壁をくっつけた家。と、見事に分かれている。こんな近くで互いの差を見ていたら、互いにつらいものがあるだろう。そのギャップを歩いて行く。正面に議事堂らしき両肩のそびえるビルの建つ道の歩道を延々と行く内に、僕の歩みは限界にきた。サポート・カーがそこで待っていた。今日は2.3キロは歩行距離を延ばしている。たぶん12キロ位か。ずっと曇りっぱなしだったが、雨も降らず、風も弱かった。日曜日らしく市内の人もゆったりとして、あいさつする若者も何人かいた。

 ニューヨーク州の首都Albany。そこのフリースクールに泊まるが、その手前で車に乗り込んだ。落伍組のもう一人は林の中の道を延々と二人だけで歩いた時の、太ったNだった。彼は体重がハンディとなっている。12年間ほど海兵隊と空軍に入隊していた元軍人の40才。だが、そういう過去を言った後、「それ以上は聞かないで」とクギを刺した。運転するのは一昨日と同じ、息子がアフガニスタンで負傷したという母親。車に入ったとたんに、小雨が降ってきた。

フリースクールは黒人が目立つ古い地区だった。それが堂々とした州会議場や、モダンなビジネス・ビルのすぐ裏にあった。Amsterdamにもある軒を並べた良い造りの家だ。ウォーカーのひとりがそこに住んでいた。招かれて中に入ると階段は急だけど、3階にある彼の家は、ホッとさせられる質素ながら味ある部屋が3つほど。家族で住んでいるようだが、物が本当に少ない。

 フリースクールはより大きな部屋が1階2階にあり天井も高かった。10数人の子供たちとその親、そして平和活動をしている素朴な男女が集まったから、サークルは大きくなった。セネカ族から始まる各宗派の祈り、そしてスピーカー。堂々とした体格のカユガ族のアレンさんが最初。
 「ウェスト・ヴァリーのセネカ・テリトリーに核廃棄物が捨てられた。水や大地が汚染されたことで健康を損なう者が多くなり、流産、奇形児の問題も重なり、1990年代に3カ所の核廃棄物所の1カ所が除去されたが、未だ、2カ所ある。かつてシックス・ネイションに来たヨーロッパ人は天国を見つけたと喜び入植したが、我々にとっては苦難の始まりとなった。私も汚染されたことを知らずに子供の頃、その場所で遊んだりした。ここの核廃棄物は原爆を作った時のものだ。国連に核廃絶を訴えたい」。

 ハイドロンさん。「第2次大戦中に悲劇の起こった場で断食し、祈ることをしてきました。1987年に、2人の僧がストックホルムからアテネに向かって核凍結を訴えて歩いているのを見ました。私も1日だけ歩いたのが最初。1980年代、西ドイツに配置された核弾頭は1.400発。その1個だけでも広島原爆の13倍の威力があった。今は240発だが我々の兵士が使うよう訓練を受けている。5月3日の国連NPT会議で、全ての核廃絶を訴えよう」。

 日本人しげるさん。「1945年8月6日広島原爆、8月9日長崎原爆。8月15日終戦。私の父はソ連軍によってシベリアに2年間抑留されました。そこで多くが死にました。母は戦時中の状態を男一人に対してトラック一杯の女性位の率で、男が少なかったと言いました。父は77才で亡くなる2週間前に舞鶴に行きたいと言いましたが、実現できませんでした。私はそのことを、今だに悔やんでいます。大陸から引き揚げた日本人は舞鶴に上陸したのです。日本は平和憲法を持ったことにより、私たちは戦争を体験せずに済みました。それは戦争で自分たちだけではなく、アジアの多くの人を犠牲にして得た憲法です。私がまずアジアで平和行進に参加のは、この前の戦争のおわびをしたかったからです。今回は9.11以来のアメリカで平和を訴えるために参加しました。

 最後にフリースクール責任者クリス。「1982年に国連軍縮会議のあった時には全国全世界から100万人が集まり、デモをしました。その大群衆の中で偶然ですが、黄色の服を着て太鼓を叩いている宗団に会いました。車椅子の老人を先頭として。その方が創始者の藤井上人でした。その後また偶然にここオルバニーでその音を耳にして会ったのが、純さんです。その時彼女は、カリフォルニアを追われたデニス・バンクスがオノンダカ族のテリトリーに逃げ、ニューヨーク州知事に州内を自由に動けるよう請願していました。純さんがそこから州都オルバニーまで一週間歩き、州知事庁舎前で1週間断食をすることを、1年間繰り返していた時のことです。彼女はこのフリースクール前に住むクエーカー教徒の女性の家に泊まっていたので親しくなり、グラフトンに法塔を建てる時にはフリースクールのスタッフが最初に駆けつけ、泥の道を3トンの岩を20人がかりで転がし上げるようなこともしました。5月2日に向けて、オルバニーからも何台もの大型バスを仕立てて国連に向かいます」。

 ここはフリースクールだから子供が多く、広い空間で自由に学び遊んでいる。多くの人を泊めることに慣れているようだ。男と女別部屋となって、厚いマットが一面に広げられた。都市の中心だというのに、伝統的な造りの家だけのこの通りは本当に静かである。

 世界中の国の軍事費の合計した額の半分を一国で使っている国アメリカに、100兆円をイラク戦に、しかもその内の数兆円はわいろやら無駄に使い、現大統領も毎年3兆円をアフガニスタンに使うと宣言した国アメリカに、これだけ色々な平和運動をしている人がいる、という事実に、心が静まってくる。
 そして、このフリースクールの経済基盤もユニークだ。この黒人街の通りで半壊した建物を買い、それを皆の手で修理してアパートに改造、その家賃でもってフリースクールの運営費をまかない、40年間続いてきたというアメリカで一番古いフリースクールコミューンの自信がそう安心させるのだろう。教師は既に2代目3代目だ。スピーチをしたクリスさんは既にリタイアしているが、かつて日本の宝島出版社より「学校へ行きたくない子供たちの学校」という本を出版し、一時はかなりの日本人がここを見学に来たとのこと。彼らはグラフトンの仏舎利塔建設にも、フリースクールから紹介され、訳判らなかったようだが奉仕をしたという。

 このフリースクールの生徒は現在約50人、毎日幾つものカリキュラムがあり、生徒は自由に選べる。3才の保育園児から12才まで。運営については、生徒と教師が同じテーブルを囲んで話し合い、また生徒だけで話し合うこともあり、その時は教師は後ろに座り、ただ聞いているだけだという。学費は少額、より貧しい者は奨学生として無料。

 夕飯。日常的にこのような団体を収容しているらしく、食事にしても見事に菜食バイキング料理が出てくる。暖房も丁度良い温度。床の小さな穴から温気が吹き上げる方式だ。マットの上で楽々と寝た。


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