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4月20日(火)

4月20日(火)
 
 今朝純さんが「サワさんは今日レストデイにしなさい」。今日のコースには、上り下りが多いとのこと。そこで、ウォーキングシューズを買いに行くという近くの街出身の40才男性の車に乗り、Albanyのモールへと行く。堂々としたモールには、朝開店直後のせいか、人は少なかった。広い通路には貴金属の屋台、そしてファッション衣料やクツ店などが並ぶ。トイレのサインに従って2階に上っても見つからない。ようやく奥の隠れた所にあったのは二重ドア。そして例のごとく、トイレのドアーには隙間があり、上も下も空間がある。排泄行為が完全密閉の空間で行われるのは日本でけではないか、と思い当たった。便の匂いも忌み嫌う。かつてはボットン式だったのに、日本人にとって現代化することは、あらゆる自然行為を否定することだと勘違いしたのではないか、とも思った。

 運転の彼がクツを買った。ウォーキング専用というのが30ドル。中国製だった。ウォーク一行を追って走る車中で話す。彼は7年間働いた家具工場が不景気となり失業。1年半の失業保険を貰っている所だ。あと半年。どうしようかと案じるうちに、精神不安定となった。近くのピースパゴタに行って悩みを打ち明けたところ、「暇だから悩むんです。ウォークはいつも忙しいから参加したらどうですか」と純さんに言われ、Fondaから歩き始めた。以来少し落ち着いてきたようだ。彼によると失業率はシカゴ市に次いでニューヨーク州が一番高い。

 ウォーク一行は丘を行く1車線脇を上り下りしていた。歩く速度が遅いのは、75才の森下上人に合わせているからのようだ。今日の彼は、少しよろめき気味だ。後続する池田上人がかばっている。偶然だが、池田上人は僕が京都の時代がかった木造アパートに半年間住んでいた時、この部屋に居た。当時少々人生に迷い気味、世の中に絶望気味だったが、その後出家。かなり引き締まってきた。英語が上達しているのにも驚いた。

 ゆっくりペースなので僕も途中から参加。ただ、ツエをつく手の平の皮がむけつつあるのが、少々痛い。大きな木の茂る林で休息。街の一般家庭の庭は、芝生だけ。申し訳程度に、花の咲く木があるが、時には郊外に大木を大切に維持している大きな家もある。だが、運転する元家具職人によると、あと百年もすると、自然公園以外には、木はほとんど無くなるだろう、とのことである。その森の食事中に、純さんより、アメリカの人種問題についての話を聞いた。

 かつて、ボストンの加藤上人が人種融合を唱えて黒人、白人、半々くらいのウォークをアメリカから南アフリカまでした時、白人は過去の罪を悔いている人ばかりだったが、互いのわだかまりは溶けず、一人の白人神父が20日間断食して歩いても許されなかったという。ある日、南部で黒人がリンチ、死刑にあった地点に来たところ、黒人たちは憑依現象に陥り、そこで儀式をやることになった。黒人一行だけが、その場所を中心とした輪を作るべきだ、と言ってきかなかった。日本人は自分の判断で内側を向くか外側を向くかを決めろ、ということだったという。

 まったく一目見たら黒人は黒人大統領を出して誇りを持ち、多人種間をとりまとめているように見えるのだが、数日前に同行した唯一の黒人Aはオバマは、奴隷の子孫ではなく、アフリカ人と白人の混血だからと、区分けをした。そして彼だけが、白人の参加する行進に加わっているので、黒人仲間からとやかく言われるらしい。遺伝子に刻まれた白黒の対立は、ひとりの黒人大統領が出ただけで変わるほど生易しくはないようだ。

 先住民は居留区ながらまだ土地があり、細々とでも頑固に言語と信仰を守っている例もあるのに、黒人はルーツの全てを失ったのだ。だが、そのとき「でも黒人はブルースをアメリカで生んだでしょう。同じようにルーツを失い、ヨーロッパに戻ることも出来なくなった白人とジャズを生んだじゃないか」と言うと「そうだな、私もジャズだけを聴く。あれには、途中でも合いの手を入れられるプレイヤーとオーディエンス、互いが交わすインプロビゼーションがあるからな」と言った。

 僕もジャズだけを聴く。日本人が自然と伝統というルーツを失いつつあった1960年代の高度成長期にはまって以来、続いている。僕のジャズ坂がまだ続く。緑濃く天気は見事に晴れ、風もない絶好のウォーキングコンディションながら僕は歩くスピードが追いつかない。しんがりのモホーク族青年も皆と一緒でないと、膝の故障がたたって、益々遅れ気味となる。彼は異常に太っているからなおさらつらそうだ。彼のためにもギブアップ。今日の宿泊所、アテネに直行した。ハドソン川沿いの公園で一行を待つ。

 運転した元警官が、ハドソン川は、ニューヨーク港から北上し、カナダ国境あたりの運河から五大湖に入り、その西端がミシシッピー川に入り、メキシコ湾に出る。ニューオリンズ川からニューヨーク湾へと沿岸航海をすれば、一周コースとなり、その円の中の平地は一番発展したという。工場が多かったから、ここでつれる魚は月に3匹以上食べてはいけないほど汚染されている。ウォークの起点バッファロー近辺は月に一匹だということだ。

 両岸は保護されているらしく森が延々と茂っているハドソン川。その裏には闇がある。プロテスタントのクウェーカー教徒は、この川の船を使って黒人奴隷をカナダに逃亡させたという。

 ウォーク一行が到着すると、街の住民4人ほどが車で迎えに来た。2台のサポートカーも含めて、皆が分乗、今夜提供された宿舎のコミュニティハウスに向かう。大きな元工場を改造したという空間に、30人ほどのコミュニティメンバーが集まった。ニューヨークから移住したアーティストや自由業が多く、何かあれば一緒に食事して、訪問者と交流する。映画館では普通見れない映画上映がひんぱんにされ、ニューヨークのメトロポリタン劇場の舞台映像も見られる全米数カ所の映画館のひとつだ。

 まず、ウォーク一行の報告。僕は1954年のビキニ環礁第五福竜丸被爆事件とその後の原子力平和利用の流れについて話した。その年の3月1日、焼津港を母港とするマグロ漁船第五福竜丸は、フィリピン東方の太平洋上にあるビキニ環礁の入域禁止地区より700キロメートル離れた海上で操業していた。当時、他に800隻の日本漁船もあたりに居た。3月1日、早朝巨大な火の玉、そして強風、その後雪のように白いものが落ち、甲板に積もった。船員は皆それを浴びながら巻き網を上げ、無線を傍受されたらアメリカ軍に撃沈されるかもしれないと、一切の通信を交わさずに2週間ほど航海を続け、焼津に帰港。

 その間に船員の健康が悪化し、検診すると広島原爆の後に現地入りした医師団のひとりが、あの時の症状と似ていると気づき、東大病院に船員を送った。第五福竜丸の指揮者の持ち帰った白い雪のような物体を調べたら、水爆実験により汚染された珊瑚の粉末だと判った。その時の水爆は、広島原爆のなんと1000倍。

 東大病院で、皆に愛されていた無線長の久保山愛吉さんが亡くなり、全国に起こった核兵器廃絶の運動は世界に広がった。日本の核廃絶署名は6000万、世界中で6億の署名が集まった。陸揚げされたマグロは廃棄され、僕も憶えているが、雨に濡れないように、と学校や家で言われたものだ。僕が小学生上級の頃だ。それが僕にとっては初めて核を意識した時だった。だが、そのアレルギーを消すために「原子力平和利用」戦略が発動された。

 翌1955年の読売新聞元旦号からアメリカから原子力平和利用使節団を招くとの、一大キャンペーンが次々張られた。当時の社長、正力松太郎は後にCIAのエイジェントであったことが判明している。その使節団は、日本中をツアーし、原子力アレルギーを平和利用へと転換させた。一年以内に東海村には実験炉が輸入されている。

 僕はビキニデーの3月1日から2週間に渡って催される焼津流平和の集いに、昨年と今年参加した。今年はマーシャル諸島から女性の代表が労組に招かれ、恒例の焼津市内行進には1,500名が参加。マーシャル諸島からの女性代表は行進の合間を縫って、集いの現場でNPOと会い、その後に市長とも会見した。僕はその通訳をしたが、島民は64回の原爆実験により健康が蝕まれ、流産と奇形児出産の率も高いという。そして、アメリカ先住民と同じに、アメリカ政府による強制移住、そして缶詰などの食料提供による糖尿病など、悲惨な歴史。

 それでも、その女性代表者にはたくましい存在感があった。現在マーシャル諸島の国家予算の95%は、アメリカによって提供され、10年後にはその援助も切られるとのこと。丁度そこを半月間旅をして現地の事情を見て来た日本人の友人からも詳しく話を聞いたが、南海の天国が、まずドイツ、そしてイギリス、日本、アメリカと統治国を変えながらも、自分たちのアイデンティテーを維持している状況を聞くと、心うたれるものがあった。

 コミュニティの人たちとバイキング方式の夕食。相変わらず食糧自給率100%を超える国の食事は豊かだ。テーブルを共にした女性のひとりは病院勤めをずっとしているというので
「アメリカの健康問題は何ですか」と聞くと、
「心臓病です。食生活と運動不足によるもので、防ぐことができる病気なのです」と答えた。

 確かに異常な重量の肉体、それもふくれあがった腹と尻の持ち主が多い国である。肉と砂糖を摂りすぎているようだ。

 皆が引き上げるのを待っていたかのように、アジア的な風貌の2人が、テーブルに座った。30代の男は、エクアドルから来てこの土地の女性と結婚して住んでいる。

 20代前半の青年は「シャーマンとして選ばれ、長老に教育を受けて来ました」と言った。僕が「日本の先住民アイヌと一番似ている人種はエクアドルのインディオだそうです」と言うと、さもあらんと大きくうなづいた。

 世界中の先住民の間で大きくつながった動きが続いているようだ。推測するしかないのは、僕たち現代人がその動きを感じる能力を失ったからだろう。だが、現代人でも精神的な修養を積んでいる人にとっては、かなり明らかな動きのようだ。僕がウォークに参加したモホーク族コミュニティのFondaで会ったカナダ人は、長い公務員生活の間にも瞑想を続け、退職後は世界の聖地を回った後にミャンマーの寺で2年間修行をした。

 現在カナダでは瞑想会をしている彼が「今、南北アメリカの先住民の間で、精神的ルネッサンスが起こっており、自分も近く、カナダ先住民と共にペルーに行き、インディオに会う所だ」と言っていた。白人が来るまで、南北アメリカの先住民は、食物が豊かで疫病が少ない風土で人口を増やし続け、15世紀末には5000万人から1億人居たという。同時期のヨーロッパは6000万人から8000万人にすぎない。

 彼らの文明は紀元前11世紀から始まり、紀元後はメキシコ、ペルー、ボリビアなどで次々と文明の華を咲かせ、その15世紀末には、メキシコ湾からメキシコ高原にかけてアステカ王国、ユカタン半島にマヤ文明、ペルー北端から南端と内陸にかけて南北4,000キロメートルのインカ帝国を築いていた。

 それがたった数百人のスペイン人に滅ぼされたのは、まず彼らの持ち込んだ天然痘が蔓延し、アステカ王国は、スペイン人を神話に予言された白い顔をした神と思い込んだほど、怖れ、戦意を知ったからだ。スペイン人の使った鉄と馬の威力もあり、インカ帝国などは、わずか180名のスペイン人と30頭の馬に滅ぼされた。

 その16世紀半ばから、銀山やプランテーション農園や、都市の建設に酷使された先住民は、人口を20分の1に減らし、つい近年に至るまで、黒人と共に社会の最底辺で苦難の道を歩んで来た。それが、近年、ボリビアで初の先住民大統領当選に象徴されるように、社会的にも復活、当然精神的にもルネッサンスを迎えているに違いない。

 今回のウォークでも、Albanyからは先頭を、髪はモヒカン刈り、顔には伝統的デザインの入れ墨をしたアレンさんが部族のシンボルの丸い木の輪をかかげてリードしている。しんがりは、モホーク族の元兵士だったジョンだ。純さんも、先住民との御縁の深い人だ。僕も歩きながら、失った感覚を取り戻そうとしている。

 夜は教会の床泊まり。固い寝床も慣れると背骨をまっすぐとする効果があるのに気がついた。
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