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4月29日(木)

4月29日(木

 起きて海外仕様に転換したAUのケイタイでNPOのワークショップ関係者に電話。僕のケータイは安価なものだったから、ウォークの間は圏外の事が多かった。が、さすがにニューヨーク、機能している。

 明日午後2時半にNPOのワークショップ受付が始まるという。このアパートの友人も用事で明日まで戻らない。完全に一人、そして自由な1日が、入国以来初めて得られた。

 ケイタイに溜まっていたメールに返信。電話も何人かにかけられていたが、電話番号の記録が残っていない。海外でも日本と同じ条件でケイタイを使おうとすれば値段の高い機種を求めなければならない。僕のケイタイにアメリカの公衆電話からかけた人は、まず最初に001そして81の国別番号を入れ、最初の0をとってからようやく繋がったとのこと。それも2分間で1ドルかかった。

 それでも、この2週間以上ケイタイから離れていた間に僕は変化した。世界から解放されペンの世界が甦ったのだ。だから15分でもどこかにウォークが止まると、すぐにメモをとったし、サポートカーに乗っても書き続けた。昼食用のおにぎり担当のスタッフは朝4時半に起床。他の者を起こさないようポツンと灯されたスタンドの下で、黙々と作業を開始するが、僕もその隅で前日の原稿を仕上げるべくペンを滑らせた。ある分量が溜まると田舎の郵便局から航空便で、それをタイプ打ちしてくれる日本の友人に送る。という過程のあとに、ブログに載せられる。そのシステムが備わっているのも、書く旅を滑らかとした。

 短いウォークの休息時や、暗い室内や車の移動中に書かれたものばかりだから、悪筆の上に文章も整っていない。それを友人が喜んで解読し、人の目に触れてもおかしくないものとしてくれる。だから僕は現場からの体験素材収集と送付の役に徹せられる。ブログも別な友人が開設してくれたものだ。68才の僕がかろうじてマスターしたデジタル・ワールドは、未だケイタイ・メール、ケイタイ・写真の域を出ていない。

 だが、この僕より1世代若いチーム・メートが存在しているからこそ、ブログに書き続けられる。少なくともその2人は、記事を読んでいるという実感がエネルギーの源だ。その2人以外に反応を確かめられるのは数人に過ぎない。デジタル・ワールドは孤独である。

 今日は1人の自由時間。本来のランダム・ジャーニーが久しぶりに甦った。そうだ、マンハッタン島を北から南まで市バスに乗って、面白そうな所でフラリと下車してみよう。これまで数回、市バスに乗ったが、運転手と乗客のやりとりと、乗客同士の交流は、古き良きニューヨークのままの素朴な優しさに溢れていた事を思い出したからである。そしてバスだけが、この滑らか過ぎて素早く流れ続けるニューヨーク市マンハッタン島では、唯一速度が遅く、通りごとに止まるのも、僕の本来のランダム・ジャーニーにピッタシである。

 路上には、昨朝と同じ出勤途上の若者と壮年者の群が各々、自ら定めた方向に向かって素早く流れ続けている。オンタイムのニューヨーク、効率万能の世界。僕がまだ仕組みを知らないファイバーに流れる情報もかくなるものかと想像するより外はない。黒を基調とした男のファッション、エステで締めた肉体を更に引き立てるかのごとき女のファッション、双方が素早く歩きながら統一しているのは、知的なセックス・アピールだけのように見える。

 このビジネス突入アワーに予定もなく道に出た。(俺はゴミか?)と戸惑ってしまう。そこで流れが及ばない建物脇にある消火栓に腰掛けてタバコを吸う。その途中で気がついた。その赤い消防車のホース用大型蛇口は2ヶセット。道に向かって切断された両腕みたいに広げている上部は、椅子並みの高さと広さがあるが、誰も座っているのを見た事がないことにハッと気がついたのだ。当然法令によって禁止されているからだろう。

 Private Property, Public Property, 個人所有物と公共物以外には何もないのが地球の現実であり、その権利は法律で保障されており、それを破る者は罰せられる。だから、人のやらないことはあえてやるな、というのが人間社会の常識なのである。特に昨今のアメリカでは。そして、特にアメリカでは意識していなければならないのは、毎年1,100万人が投獄されているという事実である。ということは、一日に700,000人が監獄の中に居る。ほとんどの人は24時間以内の勾留だが、1年間そのままに勾留され続けることもたまにはあり、それは若い有色人種の場合が多い。これは友人に提供された分厚い刑務所白書によるものだ。市民による、犯罪により厳しく対応せよ という要求が強まっているから判決も厳しくなる。そして、微罪であっても記録は残る。例えば、自動車を運転していて車内に空であっても酒瓶、酒缶が転がっていただけでも、かなりの罪を課せられるのだ。今回取得したアメリカ入国許可ESTAに傷がつく。そして、その電子査証認証システムの記録は日本の官庁も当然共有している。

 そこでタバコをくわえたまま、人の流れの途切れる公衆電話ボックス脇に移動するが、そこは少なくとも足以外はうまく隠れられるので、夜間の立ち小便所となっているらしく臭い。結局、ラッシュアワーのニューヨーク・ダウンタウンの路上で立ち止まれるのは、黒っぽいビニール袋の端が一抱えはある灰色の円筒の上蓋にはみ出している、街角のゴミ箱脇だけだ。そこに立つと、遥か離れたビル下部の、下着がはみ出したみたいな細い部分に腰掛けた、ストリート・ピープルの点が良く見える。彼らの3分の1が帰還兵であることを思い出した。ビジネス戦場に放り出された帰還兵は、社会の敗残兵となりがちだ。もう戦ってばかりいられないとギブアップするのだろう。味のある存在をした大柄な黒人がゴミ収集に来た。互いに通じ合うものを感じ取りながら、さてどこに行こうかと、歩き始めた。そして、まずは面白くもない北のアップタウン、山の手地区を最初に片付ける事とした。

 思いつくのは、NPOのワークショップが催されるリバーサイド・チャーチくらいだ。ところが、その1960年代にベトナム反戦運動や黒人の公民権運動の拠点となったことで有名なはずの教会を、街角のホットドッグ屋台やら雑貨屋や、止まっているタクシーに尋ねるが誰も知らない。そりゃ当然だろう。店員や運転手は移民したばかりのイスラム教徒らしいのがほとんどなのだから…とあきらめて、暇そうで信心深そうな人を探し求めた。信号待ちをしている老女にようやく行き当たり、尋ねると、「そう、その教会でメサに行った帰りに、私の母が3度目の心臓発作に見舞われたという電話を受け取ったのよ、それで、そのまま自転車を駆って病院に駆け付けたの。あの時はマンハッタンを南北往復したわ」とのこと。

 だが、彼女は「いつも自転車しか使わないから、どうやってバスで行くか知らないわ」とカラカラ笑った。マンハッタンは平らだし、運転マナーがとても良く、車のスピードもそこそこ、そして東西南北に道が作られているから、車は信号で頻繁に止まる。だから、車道を行くサイクリストを結構見かける。僕が入国したてに入手した地下鉄地図を見せると、「確かコロンビア大学の近くだったけれど、最近は近距離しか行けなくて」と、通勤客のラッシュのながれる交差点に止まって考え込んだ。

 「そうそう、これで調べましょう」と、新世代型ケイタイを取り出しモニター画面をなぞると出てきた。リバーサイド・チャーチの住所と行き方。バスは23番、そしてハドソン川沿いの道で乗り換え、ハーレム行きで120番街下車。100余りの通りを突っ切り北上するという訳だ。そこで礼を言って、バス停に向かおうとしたら、「ちょっと待って、これもうじき期限が切れるからあげる。貰ったけど使う機会がなかったの」と、市バスカードをくれた。ブランド・ニューのやつだ。どうやらニューヨークでは、ちょっとした触れ合いにも何か具体的な証しを残したいような、一期一会があるみたいだ。白髪の少女みたいな老女にそこで別れた。「Have a good day!」。佳き一日を!が、ここらの別れ際に交わすあいさつだ。

 結局リバーサイド・チャーチまで、市バスで1時間半かかった。少なくとも50のバス停に止まった。その度にほぼ黒人で占められる運転手と乗り込む黒人の間であいさつが交わされる。それは、同じ黒人地区で交わされるものと同じ、相手をいたわりあう温かさと優しさに溢れ、そして明るく笑いがある。

 そのバスは、1920年代までに南部から大量移住した黒人街ハーレム行きであった。そこは、革新的なアートを生み出してきた。ジャズエイジ。フラッパー。ジェームス・ブラウン。パンクにヒップ・ホップ。彼らはこんな濃い人間関係に支えられただろう。ともかく、乗客の半分以上と運転手の間に、出会い頭と別れ際、あいさつが交わされる。これほどゆっくりした交通機関に乗る人種は、急ぐ仕事のない者か、失業者か、数ブロックだけ乗る者か、年金生活者、そして身障者である。車椅子の凄まじく太った黒人や、こどもの歩行訓練用を大人に適応した車輪付きのパイプ歩行器を押す白人の老女が乗った。

 バスの運転手は乗車口に車椅子用鉄板を降ろすと下車して、彼等を後ろから抱えるように、車内に押し上げる。そして、車椅子用に固定するか、身障者用シートに座らせる。その一連の動きはとてもていねいだ。下車する時にも道路表面までてねいに付き添う。そして、運転手の表情が味わい深いことには感心してしまう。50年代下町人情物語が目の前で繰り広げられるのである。たぶん、当時のニューヨークは、油と汗にまみれた労働者の匂いがプンプンとしていただろう。そして場末のジャズ酒場。下層階級といえども、男は誇り高く、家族は温かく、地域にはより強い一体感があった。もちろん、義理と人情にあふれたマフィアの存在も。それが工場は日本から中国へと移り、下層階級は失業、彼等の居住地は金融業やら情報産業関係のオタク族にとって代わられた。

 50年代に育った者は、ベビーブーマーが多いし、前大戦で唯一経済的損失を受けなかった国だから、経済は常に上向き。収入以上を消費しても、もっと収入が増える見込みがあったから気前よく物を買い、遊びにも使った。働いてさえいれば生活は益々良くなった。それがベトナム戦でつまづいた。戦費に見合う領土も経済圏も得られなかった。72年のニクソンショックは国債の価値を減額するドルの自由化、日本円高等の結果、80年代は日本のバブル経済に世界は移行、アメリカは不況、麻薬と犯罪多発ぐらいしか、ニューヨークは口にされなくなった。1988年には家賃高騰にホームレス化人口が増え、不法占拠と暴動も起こっている。

 しかし90年代、クリントンの情報産業推進で、アメリカ経済は盛り返し、ニューヨークは再びそのメッカのひとつとなった。国際金融業も並行して成長。貧民街は改造され家賃上昇、オタク族の高級住宅となった。貧民は次々と郊外へ移転する。1994年イタリア系のジュリアーニ市長当選。特に黒人に攻撃的な取り締まりを行った。

 1991年の湾岸戦争は、爆撃が主で爆弾の在庫処理程度。各国からの軍資金もあり、特に経済的ダメージは受けなくとも、2001年多分に自ら仕組んだ疑いのある同時多発テロと、同じ2001年のアフガニスタン・タリバン政権打倒以来、2003年のイラク戦へと、ソ連崩壊後に独壇場のアメリカ一極帝国のおごりがユニテラリズム、単独行動主義へと突っ走る。税金はブッシュ大統領の石油利権、軍事産業と兵士やその家族の生活保証、チェイニー副大統領の戦後再建の建設会社ヘルバートンに消費される。軍事予算は58%増加した。国内の治安維持も厳しくなった。突然のファシズムである。

 そして不況に失業。これも実体経済と遊離した金融機関どうしだけで金を回したバーチャル投資システムの結末である。利益追求の暴走、身の丈に合わない住宅を貧者がローンで買い求めるよう仕向けた結末である。一般失業率10%統計上の若者(20~24才)の失業率は15%を越える。そして大学卒の初任給は6%下がるから、親より良い生活は出来なくなる。不安となった貧民層はポピュリスト(大衆迎合主義者)の煽動に乗り易くなる。ブッシュに乗って戦争に走り、オバマに乗ってチェンジ(変化)に走る。そしてもう、誰にもだまされず自分の生活を守るしかないという受け身のアメリカ人となっていく。かつて、貯蓄率は低かったが、今は将来が不安だからとそれは上昇している。というのがニューズウィークのコラムニストの分析である。堅実なアメリカ人は世界を安定させるかもしれない。

 アメリカ人はかつてのような物造りをし始めなければ、自信を失ったままだろう。バーチャルなデジタル世界の開拓ばかりでは、開拓者魂が泣くというものだ。幸いドル安のために輸出は10%ほど上昇している。だが、貧乏人の子供は、同じような階層に留まるというヨーロッパ的社会となりつつあるのが現在の状況のようだ。コンピューターを繰れなかったら、デジタル・ネットワーク社会の流れ続ける仕事には適応できないのだ。この僕がまさにそのひとり。だから唯一バスに乗った時だけ、同類の人情に触れてホッとする。

 そんなのんびりとした移動中にチラリと心を通わせる人の出逢いがなかったら、ニューヨークなんかクソくらえだった。ウォークであれほどのオルタナティブ・ピープルに会わなかったら、アメリカはただ車が走り回り、ジャンクフードばかり、ペラペラ話すだけの人達と、マンションの入口にナンバー・キーそしてエレベーターに乗り合わせても警戒しあう都市と、同じ芝生に同じようなデザインの郊外の家のみに溢れ返っている国。金を使わなければ面白い事は何もない国という印象に終止していただろう。外で常々感じていたクソくらえのアメリカを確認するだけの無駄な旅だっただろう。

 ようやく120番街に到着。リバーサイド・チャーチは巨大な尖塔ですぐ判った。前面のハドソン川沿いに延びる公園の緑が目にしみる。その公園は1930年代の大恐慌を乗り切るために発動された大量の公共事業、ニューディール政策によって作られたという。メサに来たのか、黒いリムジンから黒い盛装の男女が降りてきたのを見ただけで、ダウンタウン行きのバスに再び乗った。「私は身障者を含めた皆に尽くすデューティーがあるんですからね」と黒めがねの黒人女性運転手が乗客の「なんでこんなにもたつくんだ」の文句に格好良いタンカ。その堂々とした応接に皆が感心して、車内はまたなごやかになった。アメリカ人は良くも悪しきも個人の損得だけを優先し、それに気をとられている間に洗脳され、操られている。全体像を見ている人は、一握りのエリートか、一握りのオルタナティブ・ピープルだけのようだ。市バスの中では、愛すべき運転手がその役を引き受けている。

 ユニオン・スクエアーで下車したのは、ここも何かあると人が集まる所で、イラク戦の時もキャンドル・サーピスが行われたのを耳にしたからだ。今回のNPTにも皆が集まり灯りを点すと準備中の下町のハートフルな公園だった。それからバスで面白そうな所に降りては、暗くなったワールド・トレード・センター跡を訪れた。グラウンド・ゼロ。グルリと工事用の塀で囲まれクレーンが何本も立っている。出会った黒人は「あの日はブルックリンから見たけど、ホコリばかりが立ち昇っていて何だか判らなかったよ」と言った。人はそこを避けているようだ。近くの、細々とした樹が規則的に植えられ、その地面はガラス照明が規則正しく埋められている新しい公園にも、寒々と数人がグラウンド・ゼロに一様に向いているベンチに座っているだけだ。

 あの日から、世界はグルッと転換した。テロ対策の名目で、徹底的に人を疑い、管理する監視社会となったのだ。冷戦後、ソ連に代わってイスラム教徒のテロリストを敵とした。アメリカは団結するために敵を作る。イスラム教徒がテロをしかけるしかない原因を作ったのは、武器の在庫処理と新製品テストに宣伝、イラクの石油、アフガニスタンのガス・パイプ、そして戦後復興の受注を戦争前から受けていた建設会社ハリーバートンではないのか。

 気分転換にマンハッタン島からブルックリンへ、盛り場でフラリと下車してハラルミート(イスラムとユダヤ教徒の、祈りをあげて血抜きをした肉)のマトン・ライス5ドルを食べた。味はケチャップだけだが、米の飯がつき安い食べ物では唯一満足できる。若い勤め人らしきがレストランの外に並べた席で飲み食いをしている。酔っぱらって吐いても、朗らかなのが仕事を持つ若いニューヨーカーのようだ。つまりヤッピー天国。道を歩く者、2人用のテーブルにはカップルが目立つ。この都市には友人と恋人が必要なのだ。かつてブルックリンは犯罪率が高かったようだが、それは北端のJFK国際空港の周り辺りのみとなったらしい。街は情報産業、金融関連者用に改造された。そして家賃が異常に高騰、アーティストもペンシルバニア州などの、郊外に拡散せざるを得なくなった。当時の写真で見るドラッグと創作意欲にまみれた若者の姿を見ることはない。

 マンハッタン島に戻り、アパートのある通りの2本手前で降りて歩いた。ウォーカーたちは今日も歩き、ニューヨーク市北端のベルゲンフィールドに泊まる予定である。僕は今日、市バスを足代わりにしてニューヨークを歩いた。この都市の全体像が少しばかり見えてきた思いがする。



 
















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