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能登半島で考えた   2010年9月29日  

能登半島で考えた   2010年9月29日

  1
  

長らくご無沙汰していた裏日本に来た。
僕にとって日本海はブラックホールのように<見えない存在>だった。昔から季節を選べば自由に航海ができた、その巨大な内海は、ヨーロッパ文明における地中海のように、東アジア文明の胎盤であった。縄文時代でさえも大陸側と盛んに交流していたらしい。アイヌ民族の一部は未だにシベリア沿岸の同族であるウデゲ族と交流している。日本海文明は瀬戸内海文明と結びついた。奈良と京都は列島を横断して2つの内海を結びつけたから成立した都市文明だった。

事実当時は首都と堺市を除けば、1万人を越える主要都市は日本海沿岸にあったのだ。武士の天下となっても戦国時代の上杉家の活躍は際立っていた。朝鮮半島との関係は言うまでもない。日本の支配者層はその半島づたいに南下して来た。江戸時代に日本文明の核は関東に移った。鎖国をしたこともあって、東海道と太平洋岸に絶対量の人と物が流れるようになった。そのようにして日本列島固有の文明が形成されていった。日本海側は徐々に日陰側となっていった。それでもまだ勢いは強かった。幕末に至っても、今の石川、富山県にあたる加賀藩は、他の藩が江戸幕府を見限って参勤交代を止めた時でさえも、最後まで盛大な行列を組んで続けた。今の新潟県の一部にあたる長岡藩は、独自の富国強兵政策に成功し、維新軍に頑強な抵抗をした。だが蒸気船は、それまで航海困難であった東シナ海と太平洋を湖とした。

江戸幕府が開国したのはその25年ほど前に起こった阿片戦争の結末を知っていたからだった。自由に移動して大砲の射程を調節できる蒸気船が、数艘の三段構えに大砲を構えた航船を牽引して砲弾を雨あられと浴びるせるや、ジャンク主体の清国海軍はあっという間に壊滅したのだった。農業立国と工業立国の差は歴然としていた。日本が植民地とならなかったのは西欧列強が南アフリカ、インド、中国、東南アジア、フィリピンなどに手間がかかっていたからだった。

明治政府は、それまでの連邦制を改め、中央集権による富国強兵を推進した。首都東京と天皇制が、その核となった。女工哀史で知られる絹織物を輸出して軍艦を購入。日清戦争で勝利すると、台湾を取得。そして、3年半分の国家予算に当たる戦勝賠償金を北九州、山陽道、関西、東海道、関東に投資、軍需産業を主とする工業化にあてた。日本海側は発展の裏側に押し込まれ、東北地方共々食糧と兵員補給の基地となった。以来日本海は、日露戦争の海戦、朝鮮併合、第1次世界大戦出兵、満州侵略、敗戦による引き揚げなど、血なまぐさく、哀しい話題の舞台としかならなかった。

近年は、北朝鮮が物語を継承した。日本人民間人拉致、ミサイル実験、核実験、そしてトンキン湾事件を思わせる韓国軍艦天安号沈没。

僕は久しぶりに日本海側を訪れた。そこに行けば、モヤモヤとした空気をよりヒシヒシとしたものに感じられるのではないか、というだけの理由で。

  2
  
 富山県立山のキャンプ地で開催された第3回ワンアース祭に参加した。その後転々としながら志賀原発に向かっていた。能登半島西岸を北上する鈍行列車で羽咋(はくい)駅到着。志賀原発は石川県羽咋郡にある。だからたぶん、そこからバスが出ているだろうと見当をつけた、というだけでそのローカル線の駅に降りた。
 
 だが、駅員はバスで行く方法を知らず、仕方なく次の北方方面行きまでしばし駅の周りを歩いてみた。羽咋は市のはずである。だが、スーパーが閉鎖されたままの残骸を晒している。コンビニの他には見るべき店はない。代わりに喫茶店が数軒健在である。かつて繊維業で栄えたらしいが、中国等に中身は移転したのだろう。体質転換を成しとげられなかった過疎化著しい地方都市である。郊外には廃田も目立つ。朝の通学途上の小中学生の他には若者の姿を見かけない。病院は新しいが、そこに通うのは老人がほとんどだ。空は曇り、迫り来る暗い冬の日本海を想わせる。
 
 古墳時代から存在してきた羽咋。奈良時代には唐と張り合って、北朝鮮と満州一帯に栄えた渤海との通商、戦国時代の一向宗共和国から戦国大名畠山氏、以来の豊臣時代の前田氏は、徳川時代に外様大名、加賀となる。
 
 
   3
   
   
 と歴史は能登半島を裏側に押しやってきた。その悲哀が、僕の意識の裏側からも滲み出てくる。たぶんこの感じは裏日本に共通したものだ。
 
  現在日本に54基の原発が存在しているが、そのうち28基が日本海側に設置されている。佐賀県の玄海原発4基の他には、近くに大工業地帯がある訳ではない。過疎地新興の名の下に建設され、その電力はほとんど列島を横切り表日本に運ばれる。僕の目指す志賀原発2基は北陸電力のもの。本社は富山市。原子力平和利用を中曽根康弘と共に音頭をとった元読売新聞社社主の正力松太郎の故郷である。志賀原発のすぐ北側に石川と富山の県境がある。正力はボログの暗号名でCIAのエイジェントであったことが明らかになっている。
  
   ところで日本海対岸の北朝鮮は、日本の原発攻撃を目的としたコマンド部隊を持っている。その事実を、細川内閣当時訪米した首相にアメリカ政府が知らせたのだが、それまで海岸に立つ原発が軍事的な弱点になるという常識が政府には薄かったようだ。細川首相は驚愕して帰国したという。
    
 反原発の主要民間団体のひとつであるたんぽぽ舎出版の「原発を並べて自衛戦争はできない」原発技術者の山田太郎著(注文はpx11443@nifty.net.jpまで)によると、原発の安全装置は「平和という前提条件」に基づいている。武力攻撃を受けた場合を想定した設計はなされていないのである。
 
 たとえ緊急炉心停止装置(ECCS)によって原子炉内にある核燃料が核分裂を止めても、核分裂によって新たにできた放射性物質が、放射線を出すとともに発熱をするので。その発生する熱を水で冷却してやらねば、核燃料の温度は上がり続ける。最後には原子炉内でペレットと呼ばれる核燃料を詰めている燃料被履管が溶けて破れてしまう。さらに温度が上昇すれば、管の破れに止まらずに、燃料自体が溶け炉心が崩壊する。
 
 その実例である1979年のスリーマイルアイランド原発事故では、運良く事態はそこまでであったが、もし崩壊した炉心が原子炉内に残る水と反応して水蒸気爆発をすれば、チェルノブイリ事故のように原子炉は破裂する。すなわち、原子炉が停止した後にも冷却し続けなければならない。具体的には海水を取り入れ、熱をそれに吸収させ、海に戻す。
 
 そのための海水用ポンプ、配管、熱交換器、電動機、非常用電源(その多くはディーゼル発電機)、軽油、タンクの多くは屋外にむき出しに置かれている。それらは小さな通常爆弾でも破壊される。
 
   4
   
 
  更に、原子炉建内には、使用済み核燃料の貯蔵された燃料プールがある。核燃料は約4年ごとに、その4分の1が新しい燃料に交換される。その間原発はほぼ一年間運転を停止する。その1年の間に強い放射線をまだ出している使用済み燃料を取り出さねばならない。つまり、定期検査の期間中、原子炉の上方10数メートルまで水を張り、その水を放射線に対する遮蔽材として、極めて慎重に水中で古い燃料を取り出し、水中を移動させ、原子炉の隣にある燃料プールに貯蔵する。その際にも、使用済み燃料どうしが、あまり接近して置かれると核反応が始まるから、互いの距離を離して固定させる。
  
  ところが、六カ所村の再処理施設が技術的至難さから本格稼働できず、そこに送られるはずだった使用済み核燃料は足止めを食い、溜まる一方となった。
  
  ほとんど全ての原発が燃料プールで、収容できる使用済燃料を増やす改造工事が行われた。これは、即ち、燃料プール内における使用済燃料の互いの距離を、初期の設計よりも縮めるという工事だった。核反応が起こりやすくなる構造への転換である。
  
  燃料プールが使用済核燃料で満杯になれば原子炉の核燃料の交換は出来ず、当然原発は運転停止に追い込まれる。だから電力会社は闇雲にその工事を進めた。その燃料プールは原子炉建屋の最上階にある。その上には建屋の天井のみがある。通常爆弾が落下すれば、使用済核燃料の位置がずれ、核反応が始まる。それを停止する装置は、そこについていない。ストップ浜岡代表のこながやさんは、パラグライダーに乗った者がボーリングの玉を落としても同じ結果となるだろうと言っている。 
  
  各電力会社は、六カ所村へ使用済燃料を送り出せない場合に備えて、原発敷地内に、プール方式ばかりでなく、新たに冷却装置付きのキャスク(容器)方式をも増設しようとしている。テロばかりでなく、レーダーに検知されない低空飛行で飛ぶ巡航ミサイル、あるいは「自爆」覚悟の特殊潜航艇要員やジェット戦闘機を防ぐ手立てはない。
  
  北朝鮮が拉致した日本人は、能登半島近辺が一番多いという。それだけ接近し易いということだ。前述の「原発を並べて自衛戦争はできない」の著者、原発技術者の山田太郎さんは、
  A 原発に対する武力攻撃には、軍事力では守れない。日本の海岸に並んだ原発は、仮想敵(国)が引きを握った核兵器である。
  B ひとたび原発が武力攻撃を受けたら、日本は永久に人の住めない土地となり、再び人が戻る可能性のない土地となる。
 
  僕が志賀原発を目指したのは、それが目下最も危険な原発のひとつだからだ。軍事的危機だけではなく、志賀原発1号機は、問題の多いBWR(沸騰型)である。
  
  5
  
  どうして僕はこんな無粋で不快で、絶望的にも見える旅をし続けているのだろう?
よりによって核施設を目指すとは、なんたる因果の故なのだろう?しかもその旅をレポートして発信までしている。近年徐々に、ここに至るまでの長い道のりが見えてきた。寿命が確実に尽きていくに従って、先の短い人生を補うかのように、過去をさかのぼり、自身の命の時間帯を一定に保とうとする。そのヴィジョンは僕の前の世代、そして僕の次の世代へと繋がっていくようなのだ。このタイムスパンをアメリカなどの先住民のように、民族の起源から、少なくとも7世代先の子孫にまで延ばす事が出来れば、悠々と死んでいけるのだろう。
  
 が、目下は現実に時折接する93才の母の世代を上限とし、ゼロ才の孫の世代までの可視世界に限られている。残り時間にやるべき課題は、まだまだ沢山ある。
  
  広島、長崎に原爆が投下された時に僕は3才だった。当然その記憶はない。戦争に関しては生まれ育った松本市郊外から、水田の向こう側の建物が小規模な爆撃を受けるのを見たり、裏庭に掘られたちっぽけな土の防空壕に入ったり、近所の軍需工場らしきが、煙のような迷彩をスプレイされたり…位しか無い。
  
 だが、鎌仲ひとみ監督の映画「ヒバシャ」に気づかされたことがある。その記録映画の中で、広島で被爆した老医師が、チェルノブイリ事故の年に東北地方と北海道で流産が激増したことを、保健所の統計から証明している。
  
 命の危機は、幼児胎児ほど敏感なのだ。65年前、僕の細胞に核の時代の刻印が押されたのに違いない。小学生時代に見た映画「黒い雨」は憶えている。広島原爆の爆風に根本から飛び去る髪。溶ける肉体。確かまだ90才を越えても制作を続けている社会派監督の作品だったと思う。
  
  6
  
  生活レベルでの生々しい核体験は1954年「第5福龍丸ビキニ水爆被災事件」からだ。僕たち母子は、東京に出稼ぎに行っていた父に呼ばれ、大田区の多摩川と海岸に近い蒲田の工業地帯に引っ越したばかりだった。「雨に濡れるな」「魚を食べるな」と日本中がパニック状態だった。そして第5福龍丸無線長の久保山愛吉さんは被爆が原因で死亡した。子供ながら(あー、世も末だ)と感じたのを憶えている。僕は当時12才だったはずだが、その時の記憶は未だに鮮明だ。
  
  タイやインドやスリランカ、ミャンマーで、子供の頃に自発的な出家をした僧達に会ったが、ほとんどが、12才から13才の時に発心したのだった。人間世界の無情さや、愚かしさを痛切に感じる年頃なのだろう。
  
  後に知ったのだが、その年巻き起こった全国的な反核運動は国内で3000万人の署名を集め、世界では6億人以上となった。だが、アメリカは、ソ連も同様の核爆弾を持つとして、地上実験を継続した。後に、ビキニで被爆した日本マグロ漁船は、800艘以上あったことも判明した。多くの漁民が被爆により死亡したが、補償金は受け取れなかった。
  
  日本中に盛り上がった反核運動に対して、翌55年正月より読売新聞は強力な「原子力平和利用」キャンペーンを繰り返し、アメリカよりノーベル賞クラスの科学者グループを招き、(平和利用なら良いじゃないか)と世論も一転、マンガ「鉄腕アトム」の科学万能世界に突っ走る。家庭電化も拍車をかけた。
  
  56年原子力委員会発足、国際原子力機関と見事に原発政策が発信した。この洗脳システムと集団的な転向は何だ?結果は63年10月26日東海村の試験炉が日本最初の原子力発電に成功し、国はこの日を今日に至るまで「原子力の日」と定めたのである。
  
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  僕はその国産原子の火が灯る数ヶ月前の63年の夏、東京から北海道稚内まで自転車旅行をした途中、東海村に立ち寄った。「夢のエネルギー」と「第5福龍丸ビキニ被災事件」のギャップ。「鉄腕アトム」と円谷監督の特撮映画「ゴジラ」とのギャップが気になっていたから、最初の目的地を東海村としたのだった。
  
  僕にとって与えられた情報は、単なるきっかけだった。当時から現場へ行って自分自身で体験する。自分なりに感じ判断する。という習性が身についていたようだ。世間の言うことを鵜呑みにはできない。身の回りに信頼に足る人格を持った大人が居ないから、自分自身で気になっていることを確かめるしかない。
  
  当時の道路は狭く混み合い、排気ガスもひどかった。翌年のオリンピックに向けた工事もガンガンやっていた。東京を脱けると未舗装の道も多く、自転車のサドルに突きあげられながらペダルをこぎ続けた。だが、東海村のあたりは、急に道も建築物もモダンに開けて世界が明るくなったみたいだった。日本最初の原子の火が点る直前の原発入口。
  
  警備員が満面の笑顔で迎えてくれた。が、中には入れて貰えなかった。そのまま一番近いキャンプ地に自転車を走らせた。だが、晴れた夏休みの午後だったのに、暗雲がたちこめているみたいに気が重くなった。キャンプ地の管理人のおじさんの表情も沈痛なものだった。夜となり、おじさんが無言で大きくしたキャンプファイアーを数人の旅人が囲んで座っていた時のことだ。村人らしきが、ひとりの少女を抱えてその輪に加わった。その高校生ぐらいの少女はブルブル震えていた。
  
  服は泥まみれ、顔は直視できないほど悲惨な表情をしていた。しばらく重い時が過ぎた後、少女が強姦され、橋の下で泣いていたのを村人が見つけここに連れてきた、ということを知った。その場の皆が傷ついた夜だった。村にとてつもない異変が起こっているのをヒシヒシと感じさせられた夜だった。日本最初の原発の村の夜は、重く、テントに入っても寝付かれなかった。
   
  8
  
  その2年後の65年、僕は日本を脱出した。
  高度成長に突き進む日本列島の狂乱状態に耐えきれなかった。奨学金を得るべく、初めて真剣に勉強し成功した。横浜から23日かかって紅海に突き出す当時の仏領ソマリランド、アフリカの角の先端ジブチに上陸した。僕は文明の逆方向に突っ走り始めた。エチオピア、ケニアを経てウガンダの大学に入学。数ヶ月間研究めいた生活をした後、ガイドや見本市や税関手続きや船の看板員などのサバイバルと、野性動物や現地の村や都市のスラムの原始的な体験に忙しく、日本のことも現代の時代も忘れていた。
  
  その後、アラブ圏とインド圏西ヨーロッパ圏に移った。20余年間も、同じようなサバイバルと伝統社会の体験にドップリ浸かっているだけだった。たまに一時帰国しても、似たようなサバイバルをして家族と友人に会う程度で、風景にも社会にも幻滅させられることが多く、早々と切り上げてユーラシアに戻った。
  
  1986年、僕の人生の形時は、突如現在進行形に振り戻った。イタリアのトスカーナで庭師めいたことをしていた時に押し寄せて来たチェルノブイリからの黒い雲。廃棄された野菜の山、牛乳の沼。引きつった人々の表情。流産の続出。メディアは沈黙したが、草の根のレベルの喧々諤々として路上デモとカフェでの討論。国民投票で原発全廃決定。詳しくは拙著「ユーラシア大陸放浪途上」梨の木舎刊に記してあるが、以来、現代文明の考案「核問題」が僕の旅の流れにふてぶてしく紛れ込んでいる。89年より、日本に基点を移してからは、国籍を持つ者として堂々と運動の現場に参加している。
  
  毎年行くボランティアの通訳やガイド等で海外でも、今春のアメリカ、ニューヨーク州やアリゾナ主の旅のように、核廃棄物、原発、軍事用核施設、ウラン鉱山を訪れブログで報告し続けている。
  
  今日目指している志賀原発も、「核の巡礼と反核運動」の流れにある。

  
  9
  
  
   再び志賀原発を目指す。七尾駅が次の目的地だった。
   数十分後に下車すると、駅前の広場も店もバスターミナルも目新しかった。みすぼらしかった羽咋(はくい)駅から来ると、数時代ワープしたかのようだ。バスターミナルで運転手に志賀原発への行き方を聞いた。「高浜まで行けば、そこからコミュニティバスがいっぱい出てますよ」運転手はニコニコ笑って答えた。裏日本でこんなに明るい街と人の表情に出くわした。志賀原発の建つ志賀町と、その東隣りの七尾市は電源開発三法による補助金の対象となっている。その効果たるや、日陰側から日当たり側に突如引っ繰り返ったかのようだ。遅い朝食を駅前広場正面のダンキンドーナツで食べる。ほぼ満員だ。大都市と違いゆっくりと客は座り、一昔前の喫茶店の雰囲気だ。客の回転は遅い。この一見ハイカラな豊かさこそ、過疎地の憧れる夢なのだろうか。あるいは、かつて豊かさだった、日本海文明への郷愁か。どこか、虚しい空気が漂っている。
   
   10
   
   だが、立山のキャンプ場で9月23日から26日に渡って開催された「第3回ワンアース祭」に集まった若者達は「シフト エナジー」を合言葉としてバイオディーゼル燃料で発電し、鎌仲ひとみ監督の新作映画「ミツバチの羽音と地球の回転」を上映。と共に、その映画のBGMを担当したロスアンジェルスを拠点とした若い日本人ラップ系の歌手MCプロデューサーのShingo2と鎌仲監督の対談の他にも、多くの講演やワークショップを展開していた。裏日本に、そのような若者層が本来あるべき姿、そしてこれからの取るべき方向を表現し始めた。彼らが会話の合間に言ったのが、志賀原発。僕を現場に向かわせている。エネルギーは彼らの危機感から伝わってきたものだ。
   
   今、列島各地で若者のキャンプイン祭が開催されている。それはオタク時代に貴重な出逢いの機会を提供している。だが、その多くは親睦会や音楽祭のレベルを越えていない。これまで問題意識を前面に出し続けてきた滋賀県朽木(くつき)村の原生林脇で催された「山人水祭」(やまうと)も、今年は講演とワークショップが激減していた。その代わりに三・三・五・五自然発生した出逢いの輪が自発的な意見交換の場とはなっていた。
   
   だが、出逢いの機会を提供する主催者が、娯楽のみではなく問題提起をして、その解決のために一歩踏み出すためのインセンティブ(動機づけ)をする必要があると僕は思う。ほとんどの若者が諦めきって引きこもっている今日、祭にテント担いで参加するだけでも、少数ながらこの閉塞状態を打開する力を秘めているのだから。若者が出逢うのは、遊び仲間を求めるばかりではなく、体験的学習を経て、社会改革へと行動するための人脈作りを求めているからでもあると僕は思っている。
   
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   高浜行きのバスに乗る。昼近くの田舎バスに乗るのは病院通いらしき老人二人。そしてふて腐ったように目を閉じた30がらみの青年ひとり。原発の街にしては、一車線のローカル道路だ。田園に村、雪国の古い重厚な瓦屋根の二階家はかつて大家族を収容していたに違いない大きな造りをしている。暗い冬に少しでも陽を入れるためか、2階には窓がズラリと並んでいる。途中から新築の密閉式家屋や倉庫も混じってくる。気がつくと客は僕ひとりとなった。こんな時にはいつもなら運転手とよもやま話をするのだが、心も口も重くなったままだ。30分ほどして志賀町高浜バスターミナルに到着。2本の長いバス用プラットホームの上には合成樹脂製の透明な半円屋根が張られている。ここに来る途中の志賀町役場も立派なビルだった。プラットホームのあちこちに20人ほどの高校生と数人の老人客が行き先別に待機中である。
   
   志賀原発に隣接したPR館「アリス志賀」に行くバスは出たばかりだった。次は午後3時に1本のみである。代わりにバスの便が多い石川県の作った「能登原子力センター」に行くこととした。次の便までの小一時間、バス停前の道脇にある古い定食屋で昼飯を食う。小さな店のテーブルは十数人の客で一杯だった。その内の数人は胸に会社名が小さく刺繍された薄青色のジャンパー式作業服を着ている。田舎の定食屋は互いに顔見知りなのだろう。離れたテーブル越しにも話し合っている。田舎にしては会話のテンポが早い。この街に新設された多くの施設に関しての現在進行形の状況を伝え合ってもいるようだ。原発の単語も耳にした。食後バス停でベンチに座ると隣の老女話しかけてきた。
   
   「このバス停あたりは以前木と藪ばかりだったんですよ。昭和47年までバスの代わりに小さな電車がここまで通っていたんです」。という昔話が続く。近在の村から志賀町に嫁入りし孫も数人。「原発は事故がありますからねー」と聞かれもしなくともポツリと言った。彼女は町民向けに未だ月一回催される原発訪問ツアーには「脚が悪いから参加したことはありません」とも言った。
   
   
  12
  
   コミュニティバスは、マイクロバスの車体よりも太く短い上に、白一色の車腹の真ん中に明るい青のデザインだから目立つ。老女はすぐに下車し、バス内は僕と運転手だけで無言の行してる寺の中みたいとなった。大きい図体だが人気(ひとけ)の全くない体育館、町民テニス場、別荘団地村、5階建ての高級ホテルの建ち並ぶ志賀町の外れに「能登原子力センター」の2階建てビルがあった。意外と質素で小規模だ。派手なのは、北陸電力のPR館「アリスの館志賀」に集約されているのだろう。だが、この石川県立の能登原子力センターに原子力緊急時に国、県、関係市町、原子力事業者が一堂に会し、指揮をする「オフサイトセンター」があるのだ。今回の訪問目的は、その機能を学ぶためにあるのかも知れない。
   
   受付はしばらくして出てきた。スタッフは僅か、客は僕ひとり。一階には、例のごとく子供でも楽しめるゲームつきの展示が並ぶが、浜岡原発や六カ所村再処理工場のPR館のように、きらびやかではない。おっとりとした昔風の小規模なものだ。二階の一部にオフサイトセンターの一室があった。「エ!これで大丈夫?」。室内には長テーブルひとつに椅子のみ。20人ほどが座れるだけの用意しかしていない。緊急用の施設というのに、無線などの通信設備も放射能検出の機械も何もない。
   
   エアコンに放射能フィルターがついているかも疑わしい。志賀原発まで5キロメートルもないだろう。事故が突然に起こった時、国、県、七尾市、志賀町、北陸電力の専門家や職員は、原発事故が起こってから機材を持ち込み配線をするのだろうか?あるいは地下に隠されているのかも知れないが、その2階の部屋にはオフサイトセンターの看板が、確かにかかっていた。パンフレットには、平成14年にオフサイトセンターは能登原子力センターに併設するかたちで整備したとあるから、その部分は非公開なのだろうか。
   
   この部屋とは別の場所に在るのか無いのか判らない。頼り気のないオフサイトセンターの存在である。人気の無い建物で限られた職員に尋ねても、パンフレットの情報以外には得られないだろうと、立派にイラスト入りで印刷されたものを読み込んだ。
   
   
   13   
    
   
   原発の緊急時には、内閣総理大臣が原子力緊急事態宣言をし、官邸に原子力災害対策本部を設置、自らが本部長となる。原子力事業者は事故現場で災害の拡大防止をする。
オフサイトセンターで国、県、関係市町、電力会社が原子力災害合同対策協議会を設置して、住民に放射線量の公表、放射性物質の除去、被災者の救護、被曝線量の測定を行う。

 防護対策は原子力防災指針より、
 1 外部被爆10~50シーベルト
   屋内退避(窓を閉める。屋外に居た場合は、タオルを水でぬらし固くしぼり、四っ折りにして
   口や鼻を保護して内部被ばくを防ぐ)
 2 外部被ばく50シーベルト以上、放射性ヨウ素500シーベルト以上 
   中性子線、ガンマ線の放出があれば、関係市町長が指示しコンクリート屋内に退避する。
 3 別の地区の避難所に移る。
 
   以上の3つのみ。
   
   韓国の原発立地区の学校生徒は、登校時カバンに「ヨウ素剤」を入れている。僕も自宅にも旅に出る時も、いざという時子供たちに分けるためヨウ素剤を持つ。薬局に注文すれば、富山の薬屋から取り寄せてくれる。だが、オフサイトセンターのパンフレットには、その服用に関して必要な時に必要な数量が配布されるので、市や町の災害対策本部の指示に従って下さい、と緊急指示の最後にチョコッと書かれているだけだ。若ければ若いほど甲状腺は放射性ヨウ素を自然のヨウ素と間違えて蓄積する。チェルノブイリ事故でも、直後に死亡した多くの子供たちは、甲状腺ガンによるものだった。
   
   ヨウ素剤を飲んでいれば、既に充分ヨウ素を持っているため、甲状腺は放射性ヨウ素を取り込まず、蓄積しにくい。40代以上は既に甲状腺が完成しているため甲状腺ガンのリスクは少なく、服用する必要はない。ヨウ素剤は、放射性ヨウ素に被ばくする前に飲むのが最も効果的である。その服用が、避難して指示されて配布されてからとは、順序を間違えているとしか思えない。たぶん、事故が起こっても大したことはない、という宣伝のためには、リアルな薬の服用は小さく最後に知らせるという方針なのだろう。
   
   
   14
   
   
   中性子線、ガンマ線が放出された場合の「コンクリート屋内避難所」は、小学校、中学校、高等学校が主で、他に体育館、文化ホール、電力会社社宅、老人ホームがある。それもまず「避難」の指示が出た時に「避難のための集合所」へ、そして「コンクリート屋内避難」の指示が出た場合には「コンクリート屋内待避所」へ「徒歩で」集まるべし、と記されている。避難のための集合所とコンクリート屋内待避所は同一の場合が多いが、約2割は、まず地区の集会所、そこからコンクリート屋内待避所へ徒歩で集まることとなる。その間、どれだけ被ばくすることとなるのだろう。
   
   
   15
   
   
   僕の志賀原発訪問は、そこで終わった。何時もそうだが、原発訪問をするとすさまじく考え込む。そして疲れた後に元気となる。今回は、北朝鮮による日本人拉致が能登半島で一番多かったことを富山市の友人に聞いたこと、立山のワンアース祭で地元の若者からその危機感を伝えられたことで勢いがついた。だが、原発自体には足がなく行けなかった。聞くところでは、海岸ギリギリに建つ志賀原発2基と海岸線の間の僅かな土地に一般車道が走っているらしい。
   
   僕は年とるにつれて旅で深追いをしなくなった。究極の目的地はない。ただ、プロセスがあるだけとなった。僕自身の死も、長い歴史のタイムスパンから展望すればプロセスだ。今回のプロセスで解ったことは、原子力技術者の山田太郎さんが書いた本の表題のままに「原発を並べて戦争はできない」である。
   
   僕は今、日本の海岸にこれほどの原発が建ち並んだのは、アメリカの戦略ではないかと疑っている。アメリカに全面戦争を仕掛けた(実は無知故に戦争を仕掛けるようにはめられた)唯一の国が二度と戦争を出来ないようにアメリカは日本に平和憲法を与えた。それと同時に日米安保条約と米軍基地。それだけではなく、軍事的弱点である原発をも与えた。日本の首相で原発建設許可を出したのは、ほとんど自民党のアメリカ追従ベッタリの派閥出身の首相であるとの統計を友人が調べて作った。

.......................................

非核三原則を宣言した佐藤栄作さんは、次の年に極秘に「日本の外国政策大綱」を作って、その中で「核兵器はしばらく持たないけど、いつでも作れるようにしておく」と書いているじゃないですか。

 そして18基の原発に建設許可。弟分の田中さんと福田さんで9基に許可。大平さんは0。ところが1980年の6月に突然死んで、7月17日に鈴木ぜんこうが発足した翌8月4日には「福島第二3号、4号、高浜3号、4号」といきなり4基に許可が出ています。
 そして中曽根康弘が首相になった82年の秋、上関原発設置計画が持ち上がりました。

 翌年83年、高速増殖炉もんじゅに設置許可。
 翌年84年、再処理工場を六ヶ所村に決め、85年にはウラン濃縮の会社、日本原燃産業を設立しました。

 再処理工場と高速増殖炉はプルトニウムを作る工場。ウラン濃縮工場は原発の燃料とウラン型原爆を作れる工場。

 そして86年、チェルノブイリ★

............................................市民ジャーナリスト 大山嘉夫(よし)虹の手紙第34便より抜粋







パテントや核燃料となるイエローケーキの輸出ではアメリカの原子力産業も潤う。そして日本の首都近郊の横須賀港は、アメリカ原子力空母ジョージワシントン号の母港となった。
   
   それには60万キロワットの原子炉が2機、つまり計120万キロワットの一般的な原発が1基人口密集する国家機能の中枢たる首都の間近に設置されたこととなる。こんな国は世界中見渡してもひとつとして見あたらない!!日米安保条約下の60年間。平和憲法共々おかげで日本は朝鮮戦争にも出兵せずに軍需景気で戦後の経済復興を果たした。ベトナム戦争では、高度成長だ。だが、何事もタダではない。それは植民地と気づかせない植民地制度ともなる道だった。
   
   自分たちの電力源を、遠い福島、新潟、青森県に原発を設置してまかない、安全圏に居ると思っていたら大間違いだ。アメリカ追従型の政治家が原発を導入したのは、少なくとも核兵器を持つ可能性を求めたからだ。これまでもその派の首相が外相時代などに核兵器所有を発言している。ハルノートを最後通告と一方的に判断し、外交努力を諦め、開戦暗号を解読されていたのに、敗戦まで気づかず、手の内を読まれ放しだった太平洋戦争と同じに、目先の欲に「はめられた」とも言える。
   
   太平洋戦争開始して数ヶ月後に、陸軍情報部はようやく英米に関する情報局を作ったのだ。大陸の片隅の島国という条件、江戸時代の鎖国もたたっているが、外交にうとくなったのは、日清・日露に戦勝した軍部と国民のおごりが原因だった。敗戦後には、アメリカに外交を任せ切りだった。アメリカは日本の首相や高級官僚の任命権、メディアとPRエージェントによる宣伝権、食糧輸出による生存権、そして軍事権をも握り続けてきた。アメリカに少しでも歯向かい、または中国に接近しようとした首相や政治家は短命かスキャンダルにまみれて辞任した。石橋湛山、田中角栄、橋本龍太郎、小沢一郎など。
   
   
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   だが、今アメリカは、軍産複合体が肥大化し過ぎた結果の戦争続きに国民生活が物心共々疲弊している。2.26事件以来の日本の軍部による全権掌握と似たような状況にある。軍事費と軍事産業に集中して予算を使えば、当然経済は破綻する。ケネディ暗殺から9.11に至るまでの異常な事件は隠された軍事クーデターだったと思う。アメリカ大統領でさえも、支配層の38番目に位置しているに過ぎない、というアメリカ人の研究家に会った事がある。そんな事情通でも、大統領の上のランクに誰が居るのか解らない。アメリカは巨大な暗黒組織の繰る軍事会社であると言っても良い。戦場からの帰還兵は成人人口の13%に当たる2,600万人。その内、徴兵制であったベトナム戦争帰還兵は600万人。残りの2,000万人は志願兵だった。それだけ他に職業が無い。

   失業率は10%、若者に関して25%。警官や教師や公務員まで10万人の単位で解雇されている。昨年は140の銀行が破産し、今年は既に120行が破産した。オバマ大統領は軍事予算削減法案を提出したが、現在200万人の兵器生産業界の失業者を増やす結果となる、として上院で否決された。僕の見たところ、若者にとっては精神の空洞化、アルコールと麻薬中毒に犯される者、自殺者の増加が最も深刻な問題となっている。

   成人男性のおよそ6人か7人に1人は元兵士。陸軍省の発表では、路上生活者の3人に1人は帰還兵だ。しかも勤労者の10人に1人は軍事関係の会社に勤めている。その上世界各地域に拡がった基地と戦線は、軍閥化させる。例えばアフガニスタンの米軍は、かつて大英帝国や日本軍がやっていたように、阿片貿易を商売している。かろうじて見るべき産業は、金を転がすだけの金融業、他には食糧自給率は103%だから、農業が唯一の平和産業となる。それも農薬、化学肥料、遺伝子組替えに染まり切っている。そのアメリカ経済を支えているのが必死で働き貯金をし、結果的にはアメリカの国債を買っている日本人勤労者であるとは、正に「はめられっ放し」である。
   
   
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   それでも今春2ヶ月半滞在したアメリカで、僕は日本よりも多様で異質な人達が共存しているのを見た。失業者が溢れる中で、時間の余裕の出来た人達が互いに思いやりのあるつきあいをしている姿に感銘を受けた。もしかしたらアメリカは再生するかも知れないという希望は現場体験、特にウォークとキャンプインから生まれた。
   
   
   沖縄返還36年目となっても米軍基地は巨大なままだ。その存在理由の一番目に、朝鮮半島有事に備えて、がある。アメリカにとって、北朝鮮独裁政権は米軍基地固定の要となっている。北朝鮮は通常戦争が出来ない。まず若い労働力を100万人、それも10年間軍隊に徴用するから工業も農業も成立せず国力がない。原油を買って提供していたソ連が崩壊して近年、中国から細々と入手するだけであるから戦車も動かせない。金融制裁で外貨が入らないから武器も新調できない。せいぜい長距離砲でソウルを壊滅させる位だ。代わりに核兵器とミサイルとテロ部隊を開発した。その方が安上がりに済む。現在、軍閥化した軍隊の一部が独走するテロ部隊のみが日本の原発を破壊するかもしれない恐れがある。

   その暴発を押さえられるのは、北朝鮮をかろうじて崩壊させぬように支えている中国のみ。そして、現実に暴発した場合には残念ながら日米安保条約より出動する米軍しかない。日本が他国に依存せずに暴発を押さえるには、かつて日本軍に従軍した朝鮮人兵士の軍人年金と遺族年金を日本人並みに支払うことだと僕は思っている。これが日本人拉致問題の解決、つまり双方の主権村長にも繋がる。労働者135万人と従軍慰安婦への補償金も当然支払われるべきだ。その名簿作りや実際に当人に金を渡せるかどうかの技術的な問題は数々あるだろうが、その交渉を通じてお互いの理解が深まることは確かだ。
   
   韓国とも同様にして互いに平等である隣人愛が育てられる。忘れてならないのは、明治維新数年後の1875年に江華島を砲撃して開国を強要して以来、敗戦に至るまでの70年間に渡り、日本は朝鮮を侵略し、37年間植民地としたことである。その間に朝鮮半島の土地、米(戦時中日本で配給された米の30%は朝鮮、中国、台湾からだった。終戦の年にはベトナム北部からも大量に運び出されたが、その貨物船はほとんど米軍潜水艦によって撃沈された。その結果、ベトナムでは200万人の餓死者が出て、ドイモイ(開放経済)前のベトナム憲法では敵国として、アメリカと、ベトナム戦中最も残忍だった韓国と日本が明記されている)、資源、労働力を収奪し強制的な同化政策により、民族文化、朝鮮語、朝鮮人の姓名を禁止した。彼らの政治経済と文化を断絶させたのである。もし敗戦時にソ連がもくろんだように国土を南北に分断され同じような植民地政策を受けたとしたら、僕たちはどう感じていただろうか。
   
   日本の武力による抑圧は、アイヌ、奄美、沖縄でしてきたことの延長線にあった。その悪しき遺産が韓国で63年から79年まで続いた朴軍事政権と北朝鮮の金一族と軍部による独裁制であるとも言える。日本が敗戦後のどん底にあった1950年、朝鮮戦争が勃発した。その火事場泥棒的特需によって戦後復興の波に乗れたのである。例えそれが大国間の冷戦の肩代わりをした戦争であったとしても、軍事基地とナパーム弾軽武器を含む軍需物資を提供した国として、ツケ払いをすべき道義的な責任がある。
   
   7世紀、百済支援のため白村江に3万人出兵して敗れた後に平安朝は新羅、唐と250年間平和的に共存した。律礼制、仏教という共通の社会基盤と、互いの間に水平な関係があったからだ。16世紀末に秀吉が朝鮮出兵して敗退した後も、徳川幕府は260年間朝鮮通使師制度を通じて友好関係を続けた。双方は民族的にも文化的にも深い関わりを持ち、僕自身が体験したところでは、情緒的にも日本人としては一番自然に交流できる外国の民族である。しかも日本には日本語を話す在日韓国人が60余万人存在するのだ。
   
   深層では、ほぼ同族とも言える両民族の心情が韓流ブームに繋がっているのだと思う。骨肉の争いを止めて、信頼関係を取り戻したら、東アジアの平和にとって、これほどの安定要素はない。中国の平和的台頭と中国内少数民族の自治実現にも貢献するだろう。
   
   北朝鮮問題をめぐる6ヶ国会議は、南北朝鮮の段階を踏んだ平和的統一の陰に、経済的社会的援助を分担するためと、各国が軍縮へと向かうための会議も兼ねるべきであると日本が主張すべきである。近年日本以外の5ヶ国は軍事費を増大させている。
   
   イラクやアフガニスタンの戦闘のように、テロとゲリラを完全に一掃することは出来ない。
   
   だから、原発を海岸に並べては北朝鮮とも、どこの国とも戦争は出来ない。戦争に加担することも危険である。きめの細かい具体的な平和外交を貫き、永世中立国家を実現するより他はない。そのためには歴史観地勢観ある外交だ。経済、文化、民間交流だ。近くそのための具体的な段階をまとめようと思っている。
   
   原発も、維持可能な自然エネルギーに転換するより他はない。特に日本は火山国だから地熱発電の可能性がふんだんにある。島国だから潮力発電も。原発の根本的な問題は、放射性廃棄物の処理方法が世界的に当てがついていないことだ。地震国の日本では地下の地層処理は危険だ。このまま行けば行き詰まる、破綻すると判っていても自分達の権益とメンツを守るためなら、国民の命もかまいやしないと突き進んだのが前大戦末期の日本軍官僚集団だった。今、同じ私欲に固まった政官財の複合体が同じ破滅に向かっている。そして何よりも、自然の力をなめたらいけない。感謝すると共に畏怖すべきだ。
   
   地震列島に原発はいらない。

  
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